ばれんたいんでー
「心さん、こんにちは…」
「紗依! 待っていたぜ!」
「きゃっ!」
心ノ介のアパートを訪れた紗依は、少しドアを開けたところで、いきなり内側から力がこめられてドアが勝手に開いたので、思わずバランスを崩してしまった。
「おっと! あぶねぇ!」
目の前にいた心ノ介が体を支えてくれなかったら、危うく転ぶところだった。
最も、心ノ介が内側からいきなりドアを開けたりしなければ、紗依がバランスを崩すこともなかったのだが。
「心さん、どうしたんですか?」
「どうしたってお前、そりゃあ…」
そこまで言って、心ノ介はモゴモゴ言葉を濁す。
「だってよー、今日はばれんたいんでーってやつなんだろ。女子がすすす好きな男にチョコレートくれるっつー」
彼も現代に来て、ずいぶんこの世界に慣れた。
みるみるうちに心ノ介も適応していったので、バレンタインデーの習慣もどこかで聞き及んだのだろう。
紗依は持っていた紙袋を指差す。
「こ、これです…」
「おおおおお!!?」
心ノ介は歓喜の眼差しを紗依に向けたのち、ぴゅーっと走っていって、居間の片隅に正座した。
キラキラした目を爛々と輝かせている。
「ええと…ど、どうぞ」
そう言って、中身を心ノ介に手渡す。
本当に、何か大きな工夫があるわけではない、手作りチョコレートなのだが、それを見たとたん、心ノ介のテンションはびっくりするほど急上昇した。
「こ、これが…!!」
「あ、あの、そんな期待するほどのものじゃ…」
繰り返すが、本当に普通のチョコレートなのだ。
そんなに期待されると申し訳ない。
だが、心ノ介はぶんぶんと首を振った。
「いや、これはうまいにきまってる!」
妙に力をこめてそう宣言すると、手を合わせてから一気にチョコレートを頬張った。
「だ、大丈夫ですか!?」
「んん、うまい!」
頬の筋肉を弛ませながら、「うまい」を連呼する心ノ介。
最初は戸惑いの表情を浮かべていた紗依だったが。
「ふふふっ」
口元にチョコレートを付けた彼の姿を見ているうちに、自然と笑みがこぼれた。
彼の言葉には嘘も偽りもない。
それがわかって、じわじわと喜びがわいてくる。
「ん? どうしたんだ、紗依?」
「いえ、何でも」
微笑んだまま首を振ってから、紗依はそっと手を伸ばす。
「心さん、口にチョコついてますよ」
「え?」
口の端についたチョコレートを拭おうとしたのだが。
「えっ」
突然心ノ介の顔が近づいてきたかと思うと。
驚いているうちに唇を重ねられた。
「っ! 心さん!?」
「取れたか?」
そう訊いておきながら、
「いや、やっぱまだかな?」
勝手に判断した心ノ介が、もう一回紗依に口付けする。
「心さんてば…!」
「えーと、怒った?」
とたんにしゅんとなってしまった心ノ介の様子が可愛らしい。
そんなふうに思ってしまったら、もうダメだ。
許すも許さないもない。
ただ、全部が向こうの思い通りになってしまうのが、少しだけ悔しかったので。
「いいえ。心さんが大好きだなぁって思って!」
「えええ!? ちょっ…」
お返しとばかりに、紗依はおもいっきり心ノ介に抱きついた。