愛の補給




「の、法子!? 一体どうしたというんだ!」


 どんどんと、ドアを叩く音が家中に響いている。
 動作の主はこの老舗和菓子屋さんの御曹司で、私の未来の旦那さん・・・のはずなんだけど。


「ごめんなさい、ミックさん! 許して!」


 私は新しく取り付けた部屋の鍵をかけて、彼の侵入を固く拒んでいた。
 愛しい人を拒むのには勿論それなりの理由がある。
 理由もなしにミックさんを拒むはずない。
 今だって、ドア越しに聞こえる彼の声にどきどきしてしまうのだから。
 でも。
 でも!


「私たちのことを認めてもらうには、こうするしかないの!!」


「だからって、何で君がオレの部屋にこもっているんだ!?」


 バンドの練習から帰ってきた彼の、疲れたような声が、私が泣き崩れる音と重なった。






「はあ? レポートが終わらない?」


 ようやく落ち着いて事情を話すと、ミックさんがドアの向こうで困惑しているのが伝わってきた。


「そう、単位がかかっているレポートの提出が明日なの。でも・・・」


「終わっていないんだね」


「はい・・・」


 終わっていない、どころではない。
 手をつけていない、のレベルなのだ。
 徹夜したって終わるかどうか、分からない。


「で? レポートするのは良いけど、どうしてオレの部屋に鍵をつけて、立てこもっているんだ?」


「だって・・・今晩はミックさんと愛し合えないんだもの。せめてミックさんの匂いに囲まれていたくて」


「鍵は?」


「会ったら絶対レポートどころじゃないもの」


 きっと彼は優しいから、何かと気遣ってくれるだろうが、それに甘えてしまう自分が容易に想像できて、私は甘い誘惑を断ち切るために、鍵を取り付けた。


「・・・明日には、終わるんだろう? オレに手伝えることは?」


「ううん、そこまで甘えられないもの。それに、ミックさん、明日も練習でしょう? 私には気にせず、今晩は客間で休んで」


「そう、じゃあ、頑張って」


 ミックさんはそう言うと、あっさり部屋から離れて行った。
 足音がだんだん遠ざかっていく。
 それがちょっとさみしくもあったけれど、それはわがままな言い分だ。
 自分からミックさんを遠ざけておいて。


「・・・よし、片付けてしまおう!」


 そうでないと、卒業にだってかかわってくる。
 せっかく「若女将」としての仕事にも慣れてきたのに、留年なんて話にならない。
 何より、留年お嫁さんだなんて、ミックさんにもみんなにも悪い。
 それだけは避けたい。
 

「頑張らなきゃ」


 私は気持を改めて入れ替え、目の前にある教科書とレポート用紙に向かった。





「な・・・何とか、終わっ・・・た・・・」


 朝日が目にしみる。
 どこからか鳥の鳴く声も聞こえてきた。
 ようやく既定の枚数を埋めたレポート用紙をステープラで止め、名前と学部を確認すると、やっと完成した、という思いがこみ上げる。


「あとは提出するだけ」


 それで単位が取れるはずだ。
 あの先生は、提出物さえきちんと出していれば、単位をくれるって先輩が言っていたから。
 ミックさんへの思いが手伝ってくれたのか、絶望的だったレポートは、見事完成へと至った。
 まだ少し、みんなが起きてくるには早い。


「ふう。顔洗お」


 きっとひどい顔だ。
 徹夜明けで、ちょっとむくんでいるような気がする。
 私は鍵をはずし、ドアを開けた。
 ――――すると。


「えっ!?」


 手前にドアを引いた途端、その前にうずくまっている人物に、私は目を見開いた。
 だって、それは・・・。


「ミックさん!」


 まぎれもなく、客間で休んでいるはずの彼だったから。
 どうしてここに!?
 だって、足音は遠ざかって行ったっきり、近付いてきてはいないはずだ。
 なのに・・・。


「ミックさん!」


 肩を揺すってみる。
 彼の肩は冷たかった。


「ミックさん、起きて! ミックさん!」


「ん・・・」


 ミックさんはゆっくりと顔をあげた。
 今日も眼鏡を外さず寝ていたみたい。
 ぼんやりとした顔が、私を見て夢から覚めていく。


「おはよ」


 極上の笑みとともに、ミックさんはそう言った。
 どきりと鼓動が跳ね上がる。
 でも、即座にそんな場合じゃないと首を振る。


「おはよ、じゃないですよ。ミックさん、すっかり体が冷えて・・・いつからここにいたんですか?」


「ん? ああ、客間に荷物を置いてきてから、ずっと」


「そんなに? だって私、全然気づかなかった」


「ああ、だって、足音を忍ばせてきたから」


 まるでいたずらが成功したときのように、ミックさんは無邪気に笑う。


「どうして・・・」


「オレにできることはないけど、近くにいたら少しでも力になれる気がしてね」


「ミックさん・・・」


 そんな理由で、ずっとドアの外にいてくれたの?
 しかも、私に気づかれないようにこっそりと。


「ミックさん、私・・・」


 彼が荷物を置きに行ったとき、寂しいと思ってしまった自分が恥ずかしい。
 言葉を紡げないでいる私を、ミックさんはそっと抱き寄せる。


「天岩戸から出てきたってことは、レポートは終わった?」


「はい。ちゃんと、終わりました」


「そう。じゃあ」


 ミックさんが軽々私の体を抱き上げた。


「きゃっ!」


 がちゃんと、わざとなのかそうでないのか、大きな音を立てて鍵を閉めた後、私は彼のベッドの上に下ろされた。


「あ、あの・・・!」


「お互い、少し休んだ方がいいと思うんだけど。まだ起きるには少し早い時間だろう?」


 確かにそうだ。
 時計はまだ時間に余裕のあることを示している。
 納得している間に、ミックさんが隣にもぐりこんできて、あっさりと私を拘束した。


「ね? 休養も足りないけれど、他にもっと足りないもの、ない?」


 耳元でささやかれる甘い声。
 私は無意識のうちに答えていた。


「愛が、足りないです」


「うん、オレもそう思う」


 ぎしり、とベッドがきしむ。
 私の上にミックさんの顔が近づく。
 唇に触れたぬくもりに、私はこれ以上ない幸福を感じた。







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