あなたのために




 ――――目が覚めたら愛しい人がそばにいる。
 それはどんなに幸せなことだろう。
 譲は夢見心地のまま、何の疑問も持たずに傍らのぬくもりと自分の腕の中に収めた。
 あたたかい、と思った。
 あこがれて届かない人の匂いが鼻腔をくすぐる。
 ・・・・・・夢に匂いなど存在しただろうか。
 ふと疑問に思った譲の耳に、自分の名を呼ぶはっきりとした声が聞こえた。
「譲くん・・・」
 そこでようやく気がついた。
 これは夢ではないことに。
 はっとして譲は飛び起きた。
「なっ・・・!! 先輩!? ど、どうしてここにっ・・・」
 一瞬のうちに激しい動悸とめまいで頭が真っ白になった。
 それ以上言葉がつむげないでいる譲に、隣で寝ていた望美がにっこりと微笑んだ。
「おはよう、譲くん」
 なんとものんきな一言だ。
 それに頭を抑えつつ、一定の距離を保ちながら譲が反論する。
「おはよう、じゃありません。何をしているんですか! 男の寝所に忍び込むなんて。何かされてもおかしくないんですよ!?」
「譲くん、何かするの?」
「ななな何を言っているんですか!」
「でも、譲くんにだったら別にいっか」
「先輩!」
 相変わらずマイペースな望美に、先ほど抱きしめてしまったことに対する罪悪感のようなものが生まれてきたためか、思わず譲の語尾も強くなる。
「いいですか、先輩はのんきすぎます。何かあってからでは遅いんですよ。甘く考えていたら痛い目を見るんですからね。・・・って、聞いているんですか?」
 まじめに説教しているはずなのに、されているほうは満面の笑顔。
 何も彼女を喜ばせるようなことは言っていないのに、この反応は何だろう。
 いぶかしむ譲に、対する望美はそんな譲の反応でさえ嬉しそうに眺めている。
 ――――と。
「・・・先輩?」
 笑顔を保っていた望美の目に、不意に涙が浮かんできた。
 目を見開いて一瞬凍りついた譲が手を伸ばすより早く、望美は譲に抱きついていた。
 ぎゅっと着物を握り締める彼女に、驚いたり戸惑ったりする前に、ただ素直に譲はその細身を抱き返していた。
 小さい頃はただひたすらに大きく見え、そして絶対手が届かないと思っていた人が、今は目の前で自分をすがって泣いている。
 やましい気持ちなど一切なく、今はただ、この人を包んであげたいと心から思った。
「ごめん。また泣いちゃったね・・・」
 しばらくして、ようやく望美は顔を上げた。そこには照れ笑いが浮かんでいる。
「急に、どうしたんですか? 何か悲しいことでもあったんですか?」
 心配そうに眉を寄せる譲の顔を見ただけで、また望美の視界はにじんだ。
「も、もしかしてさっきのことですか? すみません。俺、てっきり夢だと思って・・・」
 激しくうろたえる譲に、ようやく望美の涙がおさまった。
「違うよ。そうじゃなくて、やっぱり譲くんだなあって」
「え?」
 目を瞠った譲の耳元にそっと口を近づけると、望美は独り言のように何度も同じ言葉を繰り返した。
「生きていてくれてありがとう――――」
 大げさな、といつもなら笑い飛ばせそうな一言だが、今の彼女の言葉には非常な重みがあった。
 譲の脳裏に連夜の悪夢が掠める。
「俺が死んだら、やっぱり先輩は悲しんでくれるんですか?」
「!」
 意識してさらりと口にしたつもりだったのに、譲の言葉に、望美はこれ以上ないほど強く彼に抱きついた。
 かすかに震えている気がするのは、気のせいではない。
 しまった、と自分の軽率さを忌々しく思いながら、あわてて譲は謝罪の言葉を並べる。
「すみません! 変なことを訊いてしまって・・・忘れてください。別に深い意味は・・・」
「嫌だよ。私は、譲くんが犠牲になる未来なんて、絶対に・・・!」
「先輩・・・」
 譲はふと思う。
 この人は、自分の夢の内容を知っているのではないか。
 その上で、自分に死んで欲しくないとこんなに願ってくれる。
 昨日告白されたときにはまだ感じられなかった望美の思いの深さが、ようやく現実味を帯びて譲の心に響いた。
「大丈夫ですよ、先輩」
 いつになく穏やかで、そして甘い声で、譲はそっとささやいた。
「俺は死んだりしません。いえ、死ねるはずがないんです。こんなに先輩が俺のことを思ってくれているのだから」
「本当? うそじゃないよね?」
「はい」
 望美に思ってもらえるなら、悪い夢など簡単に追い払えるような気がした。
 そう思えるだけ、彼女がいとおしい。
「私も、絶対あんな運命変えて見せるから。だから、一緒に生きてもとの世界に帰ろうね」
「はい」
 お互い目が合って、ふと微笑みあう。
 そして、どちらからともなく唇を重ねた。
 短いキスのあと、また顔をあわせて、望美は安堵した表情を浮かべ、譲は赤く染まった顔をすぐにそらせてしまった。
「あ・・・、お、俺、朝食の準備があったんでした。い、行ってきますね」
「その格好で?」
「あ。そ、そうですね、き、着替えていかなくては・・・」
「見てても良い?」
「え、えええっ!?」
「何を驚いているの? 朝ごはんの準備、私が手伝うと失敗しちゃいそうだから、見ているだけじゃ、邪魔かな?」
「あ、ああ、そういうことですか。俺はてっきり・・・い、いや。あの、その、それは全然かまいません」
「そっか、じゃあ私も着替えてくるから、また後でね」
 望美の足音が遠ざかっていくのを耳に入れながら、譲は大きく息をついた。
 まだ顔が熱い。
 彼女が触れていたところも、彼女に触れたところも。
「・・・・・・っ!」
 ふとすると思い出してしまう彼女のあたたかさを無理矢理抑えつつ、譲は急いで準備を済ませて、台所に向かった。




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