あの時の想いをこの手に
「ん・・・?」 気がつくと、いつも聞こえる、自分ではない人物の立てる音が聞こえなくなっていた。 作曲に集中していたカナデは、ふとそんなことに気がついて、ピアノの鍵盤を滑っていた手を止める。 「・・・どこか、買い物でも行ったのか?」 この部屋にいるのは自分と、後は自分の世話役として通ってきているサツキだけだ。 サツキは今、二階の部屋を片付けているはずだ。 買い出しの指示は出していない。 「そろそろ愛想を尽かして、出ていったか・・・?」 自嘲気味につぶやいた言葉は、自分でも驚くほど震えていた。 つい先日、そんな出来事が起こったのだ。 サツキが、カナデの世話役を辞めると言って出て行った時のことだ。 部屋を出て行った時の、今にも泣きそうだった顔。 雨の中、茫然と涙を流していた姿。 どちらを見ても心臓が止まるかと思った。 だからこそ、理性のタガが外れて、思わず彼女にキスしてしまったのだが。 多少気まずさも薄れてきているが、いつまた彼女が出ていくというか分からない状況でもある。 「まあ、元々嫌われているからな・・・」 カナデはそう呟きながら、顔を歪めた。 彼女は言った。 昔は幼馴染のことが好きだったと。 そして、今は嫌いで、会いたくもない、とも。 彼女を騙し、自分の正体を隠したまま別人として接することが精一杯な自分に、嘲りの想いしか浮かばない。 それでも、彼女と一緒にいられるこの日々は、カナデにとって嬉しいものだった。 「どこへ行った?」 カナデは立ち上がり、彼女がいるであろう二階へと足を向けた。 階段を上る間、もしこの先に彼女がいなかったら、という思いが頭をかすめる。 自分の知らない間に、彼女は出ていってしまっているかもしれない。 職業柄耳は良いほうだが、やはり物音は聞こえない。 「っ!」 焦燥感が一気に胸を占め、気がつくとカナデは階段を一気に上り終え、二階の広い自室へと飛び込んでいた。 「!」 そこで、思わず息を呑んだ。 自室に入ったとたん、彼女を発見したのだ。 しかも。 「・・・・・・寝ている?」 壁にもたれかかるようにして、サツキはかすかに寝息を立てていた。 カナデが近づいていることにも、目を覚ます様子はない。 「・・・・・・」 カナデは足音を忍ばせて、そっと彼女の傍らに膝をついた。 真正面からじっと見つめても、サツキは眠ったままだ。 日々の疲れが出たのだろう。 部屋はきちんと片づけられていたから、一仕事終えてホッとしたのだと分かる。 「ん・・・」 「!」 不意にサツキの口元が動いたので、カナデははっと息を呑んだ。 一瞬目が覚めたのかと思いきや、そうではなかった。 「カナちゃん・・・」 「えっ」 サツキは眠ったまま、ぽつりと言葉をこぼした。 それが懐かしい響きを持っていたので、カナデは心臓を掴まれる思いでその場に凍りついた。 そんな彼の前で、さらにサツキは言った。 「カナちゃん・・・大好き・・・」 蕩けるような、微笑みつきで。 それからはまた口を閉ざして、穏やかな夢の中に沈んでいった。 「・・・・・・」 長いこと頭が真っ白になっていたのだと思う。 部屋に据えられた鏡の中に、顔を真っ赤にした自分が映っていた。 誰が見ているわけでもないのに、カナデは自分の顔を隠したくて、口元に手を当てた。 「サツキ・・・」 好きだと言われた嬉しさの半面、それが昔の自分に向けられたものだということに、改めて悲しみが湧く。 そうさせたのは自分だと分かっているのに、あの時の彼女の気持ちが今、手に入らないかと望んでいる自分がいた。 そんな資格、ないというのに。 ――――だから、せめて彼女が眠っている間だけは。 カナデは身をかがめ、サツキの額に唇を寄せた。 「・・・俺も、だよ」 聞こえていないとは分かっていたが、そう口にしておきたかった。 少しだけ微笑んでから、カナデは表情を改めた。 そして。 「おい、いつまで寝ているんだ!」 サツキの耳元で一喝した。 「きゃっ!?」 それで、サツキはぱっちりと目を覚ました。 きょろきょろとあたりを見回す彼女を、腕を組んだままじっとりと見下ろす。 「仕事中に居眠りとは、良い度胸だな」 「え、あっ・・・!」 ようやく事態を認識したらしいサツキは、顔を真っ赤にしながら頭を下げた。 「すみません! あの、私・・・」 「全く、お前の仕事はなんだ?」 「・・・巴草先生のお世話係です」 「そうだな。決して仕事中に居眠りすることではないな。俺はお前に居眠りしろとは指示していないはずだが」 「すみません・・・」 すまなさそうに頭を下げる彼女にため息をついて見せながらも、カナデは思い切って問いかけてみた。 「何か・・・夢でも見ていたのか?」 「え?」 サツキはカナデの質問に対して何の疑問も持つことなく、ちょっとだけ考え込むようなしぐさを見せた。 それから、ゆっくりと頭を振る。 「多分、何か見ていたと思うんですけど、どんな夢かは覚えていません」 「そうか」 「ただ・・・」 「ん?」 ちょっとだけ目を眇めて、サツキはほんのりと微笑む。 「内容は覚えていませんが、とても幸せな夢だったと思います」 「っ・・・」 言葉を詰まらせたカナデには気づかぬまま、サツキは慌てて立ち上がると、「お昼ごはん、用意してきますね」と言って、ぱたぱたと階下へ降りていった。 その場に残されたカナデは、改めて自分は彼女のことが好きなのだと思い知らされた。 彼女の一言一言で、簡単に気持ちが浮いたり沈んだりするのだから。 「・・・・・・」 嬉しくて、切なくて、でも自分ではどうすることもできない。 持て余した気持ちのやり場に困り果てながら、肩をすくめて見せたカナデは、自身もサツキを追うように自室を後にした。 |