ある夜のこと




 夜も、いつの間にか深くなっていた。
 研究に没頭するあまり、どうやら周りのことが何も見えていなかったらしい。
 レインは固まった筋肉をほぐすように、思い切り腕を伸ばした。同じ姿勢で長時間過ごしていたせいか、節々の筋肉が悲鳴を上げている。
 と、
「・・・レイン? 起きている?」
 控えめなノックとともに、アンジェリークがそろりとドアを開けた。
「アンジェリーク、どうしたんだ、こんな夜中に」
 レインは椅子から立ち上がり、アンジェリークを迎え入れる。
「レイン・・・」
 部屋に入ってきた彼女は、どこか潤んだ瞳でレインの緑色の目をじっと見上げている。
 衣装も、寝る直前だったのだろう、いつものフリルのかわいらしい服ではなく、白い寝巻き姿だ。
 思わず息を呑み、一歩後ろへ下がった彼の様子など気がつかないアンジェリークは、両手を胸の辺りで組み、神妙な面持ちで口を開いた。



「で、その例のねずみは、どこで見たんだ?」
 ベッドやテーブルの下を覗き込みながら、レインはどこか憮然とした口調でアンジェリークに問うた。
 部屋でねずみを見たから、外へ逃がしてほしい。
 夜中訪ねてきたから何かと思いや・・・。
「・・・はあ」
 何かを期待していたわけではないが、思わずため息も出てくるというもの。
「部屋の隅にいたのよ。どこへ行ったのかしら」
「おい、エルヴィン。こういうのはお前のほうが専門だろ?」
 視線を向けられたエルヴィンは、しかし、我関せずといった感じで丸まったまま動かない。
 一通り床を見回したが、それらしき影はなかった。
 レインは大儀そうに立ち上がる。
「見間違いじゃないのか?」
「そんなことないわ、確かに・・・」
 そこまで言いかけたアンジェリークの視線が、一点でとまった。
 直後、悲鳴が上がる。
「きゃああっ、レイン!」
「うわっ」
 驚きのあまり、アンジェリークはレインに飛びついた。
 突然の体当たりに彼女を支えきれなかったレインは、彼女ともどもベッドに倒れこんだ。
「いた! いたのよ!」
「わ、分かったから」
 ぎゅっとしがみつかれて、何とかアンジェリークを静めようとしたレインだったが、状況の異常さにやっと気がついた。
 自分は仰向けに倒れこんでおり、その上に彼女がいる。
しかもベッドの上で。
急に黙り込んだレインに、アンジェリークの頭の中もねずみのことから目の前の状況に切り替わった。
「あっ・・・」
とっさに何をして良いか分からずに、お互いじっと相手の顔を見つめたまま動かない。
どちらかが動こうとすれば、この状況は一気に崩れる。しかし、どちらともそれをしようとしない。
――――と、レインの手が動いた。
ゆっくりと伸ばされた手は、アンジェリークの白い頬に触れる。
「アンジェリーク・・・」
 レインは少しずつ身を起こす。
 二人の距離がさらに近づく。
 近づいて・・・。
 そのときだった。
 部屋のドアが勢いよく開いた。
「アンジェリーク、大丈夫ですか?」
「アンジェ、無事かい?」
「先ほどの悲鳴は!?」
 陽だまり邸に住む同居人三人が、あわてた様子で入ってきた。
「あなたの悲鳴が聞こえてきたので駆けつけたのですが、どうしました?」
 三人を代表してニクスがそう問うてくる。
 どきどき早鐘を打つ鼓動を何とか落ち着けながら、アンジェリークは平静を装って、ぺこりと頭を下げた。
「あ、いえ、大丈夫です。お騒がせしてすみませんでした」
「そうですか。あなたが無事ならかまわないのですが・・・ところで何故レイン君は床に転がっているのですか?」
 ニクスはいつもと変わらぬ涼しげな表情で、床の上のレインを見やる。
「・・・なんでもない」
 突き飛ばされた拍子に顔を打ったのだろうか。鼻先を押さえつつ、一段と機嫌の悪そうなレインは、ゆっくりと起き上がった。
「まさか君が悲鳴の原因ではないでしょうね?」
「女王の卵に何ということを・・・!」
 ニクスの言葉を受けて、さっとヒュウガの顔色が変わる。
 不穏な空気に、あわててアンジェリークが最大級の否定をこめて両手を振る。
「ち、違うんです。そういうのじゃありませんから」
「そうだよ、レインが彼女に危害を加えるはずないじゃないか。俺達は仲間なんだから」
 どこまで意味を分かっているのか分からないジェイドが、にこにこと間に割ってはいる。
「では、一体どうしたのですか?」
「はい、それがねずみが・・・」
「ねずみ?」
「そうなんです。ねずみがその辺に・・・」
 そう言いかけたアンジェリークの目の前を、灰色の小さい影が横切った。
「きゃああ! いた!」
「うわ!」
 アンジェリークはまたも驚きのあまり、レインにぶつかった。
せっかく立ち上がったレインは、またもアンジェリークを支えきれずに倒れこんだ。今度は受け止めてくれるクッションがなかったので、したたかに腰を打ちつけた。
「なるほど、こういうことだったのですね」
「アンジェ、もう大丈夫だよ。ねずみは俺が外へ逃がしてあげるから」
「貴女が望むなら、ねずみが部屋に入らぬよう、見張っていよう」
 三者三様の反応を見せ、一応に納得したようにうなずきながら部屋を出て行った。
「ご、ごめんなさい!」
「・・・いや」
 体のあちこちの痛みをこらえて起き上がったレインだったが、一番傷ついたのは体よりも心のほうかもしれないと、誰にも気づかれぬよう深い深いため息をついた。


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