新しい朝




 力が消えていくのが分かる。
 あれだけ頼りにしていた夢見の力が消えていくというのに、史郎には不安は一切なかった。
 それはきっと、願いが叶ったからだろう。
 過去は変わった。
 忌まわしいと思っていたこの力も体も、すべては鳴美につながっていたのだと思い出したとき、自分は大きな間違いを犯していたとやっと気がついた。
 自宅の居間のソファに腰を下ろし、大きなため息をつく。
 少しずつ記憶が書き換えられていくのは、奇妙な感覚だった。
 多くの者は眠りについている時間。
 きっとその間に、変わった過去にあわせて、「今」が書き換えられていくのだろう。

「俺の望みは叶った・・・」

 だが、と己の手を見つめながら史郎は思う。
 夢見の力は消え、これでもう死ねない体から解放される。
 長年望んでいたことが実現したのに、どうしてももう一つ、叶っていない望みがあった。

「鳴美・・・」

 宝玉の主に力をもらうときに言った。
 もう一度鳴美を抱くことが出来るなら、自分はどんなことにも耐えられると。
 鳴美ともう一度出会うことは出来た。
 しかしこの鳴美は、史郎が愛した鳴美とは別人だ。
 同じ鳴美が帰ってこないことは分かっている。
 あの鳴美は大正のあの時代に、自分をかばおうとして死んでしまったのだから。
 だから、この時代で再会した鳴美も、名虎の宴に巻き込まれ、現代と大正時代を行ったり来たりしていた鳴美も、正確には史郎の愛した鳴美ではない。

「――――そんなこと、分かっていたつもりだったのだがな」

 史郎は自嘲気味に口元を歪めた。
 分かっていた。
 だが、あのときの彼女を望んでしまう。
 きっと夜が明ける頃には、夢見の力を失うばかりではなく、変わった過去に合わせて大正の世から生きてきたという記憶も、変わっていくだろう。
 今までは大きな変化もなかったが、今回ばかりは違う。
 過去は大きく変わり、そのためにどれだけ自分は変わってしまうのか、史郎にすら分からなかった。
 もしかしたら、夢見の力だけではなく、大正時代のあの、甘く幸せな時間の記憶もなくしてしまうことになるかもしれない。
 そうなる前に、鳴美に会いたかった。
 自分が大正の世であった、あのときの鳴美に。
 そんなこと・・・叶わないとしても。

「!」

 そのとき、荒々しく玄関のドアの開く音がした。
 それから足音はどんどん居間に近づいてきている。

「こんな時間に一体・・・」

 立ち上がりかけた史郎の前に現れたのは。

「史郎さん!」

 今一番会いたいと願っていた、最愛の人だった。

「鳴美・・・?」

 現代の鳴美は、自分が最初に会った大正時代の鳴美ではないと思いつつも、史郎は飛び込んできた彼女に目を瞠った。
 何かがいつもと違う。この違和感は何だろう。
 首をかしげている間に、鳴美が抱きついてきた。

「史郎さん! 逢いたかった・・・」

「鳴美、お前・・・」

 そうか、と史郎は違和感の正体に気がついた。
 現代の鳴美はいつも彼のことを「史郎兄さん」と呼ぶ。
 呼び方が違ったから、驚いたのだ。
 納得すると同時に、違う疑問が膨れ上がる。

「鳴美、お前こんな時間にどうして・・・」

 親戚のお兄さんに会いに来るには遅すぎる訪問だ。
 いきなり鳴美が登場したことに、珍しく史郎は混乱していた。
 だが彼女は、さらに彼を追い詰めることを口にする。

「信じてもらえないかもしれないけど・・・私、大正時代の記憶が戻ったの」

「何・・・?」

 どういうことだ、それは。
 言葉にはせずとも、表情がその意を彼女に伝えていたのだろう。
 鳴美は困ったような顔をした。

「私にも分からない。寝ようとしてベッドに入って目を閉じたら、急に色々な記憶が蘇ってきて・・・」

 ぎゅっと、史郎の服を掴む指に力が入る。

「良く分からないけど、今まで忘れていたことが思い出されたの。そしたら史郎さんに会いたくてたまらなくなって・・・」

 思わず飛び出してきたらしい。
 よく見たら、彼女はパジャマにカーディガンを羽織った格好だった。
 着替える間も惜しかったのだろう。

「俺を・・・」

 乾いた唇をぬらしながら、一語一語、確認するように、史郎は言葉を紡いだ。

「俺を、覚えているのか? 大正の、あのときのことも? 全部?」

 鳴美をあの時失ってから、誰かと幸せを分け合うことなど、もうないのだと思っていた。
 幸せである大きな柱がいない。
 それでは意味がなかった。
 この時代にいた鳴美にしたってそうだ。
 結局は自分のことを「親戚のお兄さん」くらいにしか思ってはいない。
 あのときの鳴美ではないと、自分から彼女を遠ざけていたところさえある。
 だがどうだ。
 この、今目の前にいる鳴美は自分のことを「史郎さん」と呼び、なおかつ記憶が戻ったなどと言っている。

「やっぱり信じられないよね・・・私もそうだし。どうして急に大正時代の記憶が蘇ってきたのか。でも、嘘じゃないの。黒いマント姿の史郎さんも、白い軍服の史郎さんも、両方覚えているよ」

「鳴美」

 史郎は恐る恐る鳴美の背に腕を回した。

「分かるのか? 俺の誕生日のことも覚えているのか?」

「当たり前だよ」

 鳴美はうなずきながら、ぎゅっと史郎の首にしがみついた。

「朝ごはんを作ったんだけど、玉子焼き、砂糖と塩を間違えた上に、分量を勘違いしちゃって、丸焦げになったときのことでしょ? もう、忘れて欲しいことなのに。史郎さんの意地悪!」

 口調は怒っていたが、鳴美自身も懐かしい記憶なのだろう。声にはどこかしんみりとした響きがあった。

「本当に、あのときの鳴美・・・なのか・・・」

 大正時代と現代を行ったり来たりしていた鳴美は、史郎の誕生日には、大正倶楽部でダンスを踊った、と言っていた。
 だが、史郎の記憶の中の鳴美は、朝食を作ってくれたのだ。急だったから、何も用意できなくてと、申し訳なさそうにしながら。あのときの玉子焼きほどうまいものを、数十年生きていても口にはしていない。
 今まで押し殺してきた鳴美への想いが、一気にあふれ出してきた。

「鳴美。お前は本当に、俺が愛したお前なんだな」

「うん・・・どうしてずっと忘れていたんだろう。とても大切な記憶なのに・・・」

 二人は今まで離れていた分を埋めるかのように、どちらからともなく唇を重ねた。
 ずっと、ずっと焦がれていたぬくもりだ。
 もう得られることのない温かさだと思っていた。
 大正時代で最後に触った鳴美は、命のともし火が消えて、土のようにひんやりと冷たかった。
 それだけに、こうして彼女の体温を感じられるのは、まるで夢のような出来事だ。
 この瞬間を迎えるためだったら、死ねぬ体を長い間苦悩し続けたことなど問題ではない。

「鳴美。恐らく俺たちの大正時代の記憶は、今夜で消えてしまう。過去が書き換わっていくのが俺には分かる。現に俺の夢見の力は急速に弱まりつつあるからな。朝には消えてなくなるだろう」

「ごめんなさい。私のせいで・・・」

「そんなことはない。あの時俺がお前を守ってやれなかったのと、俺が選択を誤ったのが原因だ」

 史郎は優しいまなざしで彼女を見下ろし、いとおしそうに鳴美の髪の毛を梳く。

「なあ。一つ頼みがあるんだが」

「何?」

 手を止めずに、史郎は一つの提案を口にした。

「大正時代の記憶がなくなってしまう、そのときまで。今夜は朝まで一緒にいて欲しい」

 鳴美の脳裏には、横井邸での一幕が思い出された。
 史郎がシベリアに出兵する前夜、彼の部屋で・・・。
 かあ、と顔を赤くした鳴美に、史郎が「どうだ?」と低い声で答えを促す。
 イエスかノーかは、すでに決まりきっていることだ。

「うん・・・私も一緒にいたい」






 窓から差し込む月の明かり。
 それに照らされながら眠る、安らかな顔の鳴美を、史郎は飽きずにずっと眺めていた。
 この腕に鳴美を抱く願いも叶った今、もう望むものなどなかった。
 きっとこの闇が払われたら、鳴美とは親戚関係に戻るだろう。それを鳴美も、そして自分自身も疑問に思わないかもしれない。
 だが、と史郎はふと笑みをこぼした。

「お前を愛していたときの記憶が書き換えられたとしても、俺はまたお前を愛するだろう」

 そのとき、鳴美が嬉しそうな表情をした気がしたのは、錯覚だったろうか。

「目が覚めたとき、俺たちはどう変わっているだろうな」

 一瞬も無駄にしないよう鳴美をしっかりと抱き寄せながら、史郎は彼女の額に唇を寄せた。






「ん・・・」

 朝日に誘われるように、鳴美は目を覚ました。
 まだ眠い。
 ぬくぬくとした布団がいけないと思う。

「んん・・・」

 そういえば今日は日曜日だっけ、とのんきなことをぼんやり頭に思い浮かべながら、鳴美はゆっくりと目を開けた。
 とたん、

「・・・・・・え?」

 目を疑った。
 目の前にいる人に。
 自分の姿に。
 そしていつもの自分の部屋ではないことに。
 最初は何がなにやら分からなかったが、目の前の人の寝顔をじっくりと眺めている間に、大変なことをしてしまったことに気がついて、思わず叫び声を上げてしまった。

「きゃあああっ!」

「な、何だ! ・・・・・・こっ、これは・・・!」

 鳴海の声で目を覚ました目の前の人――――史郎は、鳴美の姿をとらえるや、目を丸くした。

「な、鳴美? 何故お前がこんなところにいる。いや、それ以前にその格好・・・いや、俺もそうか」

 鳴美は一糸まとわぬ体を隠すように、毛布を首の辺りまでたくし上げた。
 目を開けば逞しい胸板が生で見られる。
 恥ずかしくて目を開けることが出来ない。
 二人とも予期せぬ事態に激しく混乱していたが、年の功か性格か、史郎が先に落ち着きを取り戻した。

「昨夜は一人で居間にいたはずだが・・・そういえば、途中から記憶がないな。お前はいつここに来たんだ?」

「え? あ・・・思い出せないです。自分のベッドに入ったことは覚えているんですけど・・・」

「ふむ・・・」

 史郎は思慮深い瞳を伏せ、腕を組んだ。
 もともと口数が少ない彼が考え込んでしまうと、いよいよ本当に気まずい沈黙が流れる。
 鳴美はぎゅっと毛布を握り締めた。
 本当にどうしてこんなところにいるのだろう。
 確かに自分の部屋のベッドに入ったと思ったのに。
 何故気がついたときには史郎の部屋のベッドに、しかも裸で寝ていたのか。
 ・・・もしかして、私、夢遊病なのかも。
 深刻な悩みが思い浮かぶ。

「俺もどうしてこうなっているのか、やはりわからん。しかも、どうやら一線を越えてしまったらしいしな」

「い・・・言わないでください!」

 改めて言われると恥ずかしい。

「まあ、なってしまったのは仕方あるまい。責任は取ろう」

「そ、そんな簡単に片付けてしまって良いんですか!?」

「ん? 良くないのか?」

「そ、それは・・・」

 しれっとした史郎に対して、鳴美はついていけずに混乱している。
 だが、自分でも不思議なことに、自分の知らないところで大変なことになってしまったとはいえ、不快な気持ちは一切浮かんでこない。

 何でかな?

 首を傾げてみても答えは見つからなかった。
 朝日がカーテンを越えて二人に降り注いでいる。
 新しい朝が、始まろうとしていた。







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