もう一度、はじめから




「あの、お風呂、とても気持ちよかったです」

 用意された寝巻きに着替えた紗依は、この城の主に頭を下げた。

「あ・・・いえ、お気に召したなら、幸いです」

 頭を下げられたほう――治基は、どこかぎこちなく返事をする。
 こちらも、いつものあの度派手な衣装ではなく、ずいぶんとくつろいだものに着替えている。
 あの座敷から出た紗依は、治基と顔をあわせた。
 そして、誘われてこの北浜城へやってきたのだ。
 宗重の言っていた温泉は、うわさに違わず紗依の体を存分に癒してくれた。
 だが、この城に招待されてからの治基は、どこか落ち着かない。
 思い切って紗依はそれを切り出した。

「あの、治基さん。私、何かしてしまいました?」

「え・・・?」

 治基の大きく見開かれた目を見ていると、だんだんと紗依の中で不安が膨らんでいく。

「だって、何だかさっきからずっと、塞ぎこんでいるような気がして・・・」

「それは・・・」

「私、何か失礼なことをしてしまいましたか? それで怒っているのでは・・・」

「いえ、そのようなことはありません」

 あわてた様子で治基は首を振る。
 それでも納得のいかない顔の紗依に、何といって良いか言葉を選ぶように、しばし黙考する。
 しばらくして、ようやく意を決したように口を開いた。

「あなたは、この城が恐ろしくはないのですか?」

「え?」

「初姫様がおっしゃっていたでしょう。この城から、全てが始まったのですよ。色々と嫌なことを思い出すのではありませんか」

「あ・・・」

 そうだ。
 この部屋で、初めて紗依は初姫の体に乗り移った。
 そして、命の攻防が始まったのだ。
 初めて命の危機を感じたのは、この城でだった。

「で、でも、このお城に誘ってくれたのは、治基さんですよ」

「いえ、まさかあなたが本当に来てくださるとは思いませんでした」

 治基は自嘲しているように口元を歪めた。

「あなたの命を奪おうとした人間が、忌まわしい場所へお誘いしたというのに、あなたは何故、平気でいられるのです。またあなたの命を奪うかもしれないのですよ」

「そんなこと、ありません!」

 紗依は即座に首を振った。

「治基さんはもう二度と道を踏み外したりしません。私はあなたが真面目で誠実な人だって、知っています」

「本当にそうでしょうか」

「当たり前じゃないですか! 私はあなたを信じています」

 きっぱりと紗依は言い切った。
 普段おとなしい彼女にしては、強い口調だった。

「紗依さん・・・」

 治基は、信じられないものでも見るような目つきで、紗依をしばし凝視する。
 自分では意識していないのに、気づいたら彼女を抱きしめていた。

「は、治基さん・・・!」

 今度は紗依が驚く番だった。
 そんな彼女を抱きながら、ああ、そうか、と治基は思った。

「私はあなたに嫌われたくなかったのですね」

 あんなことをしておきながら、今更許されるとは思わない。
 彼女がいくら優しく慰めてくれたといっても、犯した罪は消えないのだ。
 しかし、いつの間にか彼女を好きになっていた。
 自分にそんな資格はないと思いつつも、その思いをとめることはできない。
 彼女に近づくべきではないと言う自分と、彼女を独占したいと願う自分。
 相反する二つの自我を、治基はもてあましていたのだ。
 ――だが、もう遅い。

「私はあなたが好きだ。愛しています」

「!」

 びくり、と紗依が身を震わせた。
 突然の告白に戸惑ったのだろう。
 だがすぐに、消え入りそうな声で返事が聞こえてきた。

「私も、です・・・」

「!」

 息を呑む治基の胸元で、紗依は顔をうつむけながら、ぎゅっと彼の衣を握り締める。
 それだけのしぐさが、何故こうも嬉しいのだろう。
 治基も彼女を抱く腕に力を込めた。

「本当に、私を好いてくださっているのですか? 同情ではなくて?」

 命を狙った男に好かれている。
 それだけで普通は嫌悪を抱くものではないだろうか。
 紗依はその罪を許したばかりか、自分を愛しているとさえ言ったが、それは憐憫の情から出た言葉ではないのか。
 彼女は優しいから。
 そんな不安が治基の胸を駆け抜ける。

「もしも、無理をなさっているなら、遠慮なくおっしゃってください。そこまで気を遣っていただかなくても良いのですよ」

「違う!」

 即座に珍しく語気を荒げた紗依の声が返ってきた。
 顔を上げた彼女の瞳には、強い光が浮かんでいる。

「私は無理して言っているんじゃありません! 本当に、あなたが好きだと思うから・・・」

 語尾がだんだんと小さくなっていくのにつられて、だんだんと彼女の視線も下がっていってしまう。
 それがまるで、可憐な一輪の花がしおれていってしまうように見えて、治基ははっと息を飲んだ。
 己の放った一言が紗依を傷つけてしまったことに気がついて、顔をしかめる。
 軽率な自分の発言を思うと、後悔の念が浮かんだ。
 と同時に、改めて紗依への思いが膨らんでいった。
 そして自分が今、どれだけ幸せな状況に要るのかということを今更のように思い知った。

「・・・今度こそ、あなたをこの城の外へは逃がしませんが、よろしいですか?」

 緊張のためかやや震えた声でささやいた治基の言葉に、ゆっくりと、しかしはっきり、紗依は首を縦に振った。








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