半分こ
その電話は、少しずつ夏の暑さが和らいできていた、ある休日のお昼にかかってきた。
「あれ?」
ヴァイオリンの練習がてら外へ出ようとしていたところだった。慌てて掴んだ携帯電話のディスプレイには、見覚えのある名前が映し出されていた。
「枝織ちゃん?」
普段かかってくることのない人物の名に首を傾げながら、私は通話ボタンを押す。
と同時に、今にも泣きそうな切羽詰まった枝織ちゃんの声が、耳に飛び込んできた。
「小日向さん、大変なんです! 兄様が・・・!」
「え?」
冥加さんに何か起こったのだろうか。
ただならぬ様子に、即座に私にも緊張が走った。
「落ち着いて。何があったのか、ゆっくりでいいから教えて」
なるべく穏やかにそう言うと、枝織ちゃんも幾分冷静になったようだ。
「分かりました。実は・・・」
+ + + + + + +
「小日向、お前はこんなところへ何をしに来た」
急いで赴いた冥加さんの部屋で、私を迎えたのは予想通りの仏頂面だった。
いつもと違うのは、わずかに上気したように見える顔色。心なしか声もかすれている。
私は提げてきた袋を見せながら、構わずに答える。
「枝織ちゃんから連絡貰ったんです。冥加さんが風邪で寝込んでいるって」
枝織ちゃんの電話は、冥加さんの体調不良を知らせるものだった。
曰く、「兄様が倒れられてしまったんです! どうか、小日向さん、手を貸してくれませんか?」と。
勿論それは構わなかったので、私はおろおろする枝織ちゃんと待ち合わせをして、この部屋へとやってきたのだ。
「きっと食べるものに困っているんじゃないかと思って、途中で色々材料を買ってきました。キッチンお借りしますね」
「誰もそんなことは頼んでいない」
ベッドの上に身を起こした冥加さんは、きっぱりそう言い切る。
冥加さんの言葉はいつでもそう。
鋭い刃物のようにバッサリと容赦ない。
前はそれが痛いと思っていたのに、今は全然痛くない。
むしろ心地良くさえ感じられる。
だって。
「万が一うつってしまえば寝覚めが悪い。まあ、お前に限って風邪をひくことなどないだろうが」
「またそう言うことを言うんですね」
揶揄するように言うけれど、私のことを案じてくれているのが分かるから。
だから、今では冥加さんが本当は優しい人なんだって分かる。
「・・・なんだ、ニヤつくな。気色悪い」
「良いんです。冥加さんの優しさを噛み締めていたところなので」
「何を訳の分からないことを」
そこまで言って、冥加さんは顔を歪めた。
そう言えば、冥加さんは熱があるのだと枝織ちゃんが言っていたのを思い出した。
「すみません。寝ていて下さい。すぐに何か作ってきますから」
背後で冥加さんが、「必要ない」とか「構うな」とか言っていた気がするけれど、構うことなく私はキッチンへ向かった。
「小日向さん、兄様の様子はいかがでした?」
買ってきた食材を整理していた枝織ちゃんは、私の顔を見るなりそう問いかけた。
心配そうな表情をしている。
いつもは隙なんて見せない人だから、風邪で寝込む姿はさぞ不安になるのだろう。
私はそんな枝織ちゃんに、笑顔で応じた。
「いつもみたいだったけど、やっぱり調子は良くないみたい。ちゃんと食べて、薬を飲んで休んだら大丈夫だよ」
「でも兄様、お薬は要らないと言って、飲んでいないんです。食事も・・・」
どうやら枝織ちゃんもそれを試みたらしいが、冥加さんが頑固に拒んだのだろう。
容易にその姿は思い浮かべられた。
だけど、簡単に引き下がらないのが私だ。
「分かった。じゃあ、さくっとご飯作って、買ってきたお薬飲ませよう!」
腕まくりをしながら気合を入れる私を見て、枝織ちゃんはほろりと笑みを浮かべた。
「はい!」
ご飯といっても手の込んだものではなくて、シンプルに白米のお粥だ。
小さい土鍋にご飯を入れて、水を入れて、火にかけて。
沸騰したのを合図にコンロの火を弱くして煮込む。
「すごいです、小日向さん」
何故か枝織ちゃんは目をキラキラさせながら、その様を見守っている。
枝織ちゃんも、お菓子作りは得意なはずなんだけど・・・。
ことこと煮込んだ後に、種を除いた梅干を載せれば完成だ。
「じゃあ、私、冥加さんに食べさせてくるね」
「はい、お願いします」
私はスポーツドリンクと風邪薬とともにお粥を携え、再び冥加さんの部屋へ入った。
「失礼します」
「またお前か・・・」
足音でそれと気がついたらしく、冥加さんが再び起き上がった。
「構うなと言ったはずだ」
「私も、何か作ってきますと言ったはずです」
ため息をつく冥加さんにはお構いなしに、私はサイドボードに全てを載せた盆を置いた。
土鍋からはほっこり湯気が立っている。
ひとさじ、形をほんのり残したお粥を掬い、熱くないように息を吹きかけて冷ます。
「まさかそれを食べさせようというのではないだろうな」
私の意図するところをさっと汲み取ったらしい冥加さんは、頭痛がしているであろう頭を振って、再びため息をついた。
「いらん。食欲などない」
「だからと言って、寝てばかりではかえって体に悪いと思います」
冥加さんが頑なに拒否するのと同じくらい、私も引き下がるわけにいかないと迫る。
冥加さんの態度はつれなくて、私を拒んでいるのが分かる。
でもそれは、彼が冷たい人だからではなくて――――
「冥加さん!」
気がつくと私は、身をかがめて冥加さんの頬を両手で包んでいた。
目の前に驚いた彼の顔。
普段冷静な分、こんな表情は珍しい。
それに加えて、今は熱でやや赤みを帯びている。
私は、冥加さんが驚いている隙をついて、そっと唇を重ねた。
「・・・良いんです」
「なんだ?」
すぐ近くでいぶかしむ彼に、私ははっきり告げる。
「少しくらい、私に風邪をうつして良いんです。それで冥加さんの体調が良くなるなら、私は喜んで風邪をもらいます」
冥加さんが私をひたすら遠ざけたがっていたのは、私に風邪をうつすまいとしているから。
だから、私が近づくと凄く嫌な顔をする。
そうと分かるくらいには、冥加さんとの距離は縮まっていた。
「私を想ってくれているのは嬉しいですけれど、私にだって冥加さんを想わせてほしい。できる事があるなら、何でもしたいから」
私はもう一度、冥加さんの唇に触れた。
「大好きな人のものは、風邪だって欲しいです」
もしそれで、冥加さんの症状が少しでも良くなるなら、風邪を半分こしたい。
むしろ風邪のお揃いも良いのかもしれない。
そう思うと自然と頬が緩んだ。
――――その時だ。
「わ!」
強い力で引っ張られ、上体が一気に傾く。
バランスを取る暇もない。
あっという間に冥加さんに抱きしめられた。
「んっ」
それだけではなく、私が落とした、触れるだけのキスとは比べ物にならない、まるで噛みつくような口付けが私を襲う。
不意打ちに驚いて、とっさに開いた唇の合間を縫って侵入して来た冥加さんの熱。
それは熱の影響もあるのか、とても熱くて。
私の心を溶かすには十分すぎるほどだった。
「あ・・・」
一度離れても、息つく暇もなく再び塞がれる。
息苦しいのは彼の想いの深さなのだとしたら、このまま溺れても良いような気がした。
どのくらいそうしていたかは分からない。
彼の思うままに蹂躙されところで、今度は強い力で引きはがされた。
「今のお前にはこれで十分だろう」
そう言って、冥加さんはベッドに横たわる。
「粥は後でもらう。今は寝かせろ。お前のせいで熱が上がった」
「えっ」
「良いから出て行け」
「あ、は。はい」
有無を言わさぬ彼の言葉に曖昧にうなずきながら、私は部屋を出た。
頭が真っ白になっていて、何だかぼんやりする。
「・・・・・・」
自然と唇に手が行く。
触れた。彼の熱に。
強引で激しかったけれど、全然怖さはなくて。
あのまま身を委ねてしまいそうだった。
「あ、小日向さん」
「わっ!」
いきなり声を掛けられて、思わず大きな声を出してしまった。
目の前で、枝織ちゃんが目を丸くしている。
「どうしましたか、小日向さん? 兄様の様子はいかがでした?」
「あ、うん・・・今、寝ちゃったところ」
そう言えば、ご飯を食べてもらって、薬も飲ませないとと思っていたんだった。
それらを全て忘れさせた、冥加さんの口付け。
・・・何だかずるい。
「あら、小日向さん。何だか顔が赤いようですけど・・・」
「き、気のせいだよ!」
「? そうですか」
おっとりうなずく枝織ちゃんの顔も見ていられない。
枝織ちゃんの言うとおり、どんどん顔が熱くなっている。
多分、気のせいなんかじゃなく。
このままだとその場に崩れ落ちてしまいそうだった。
「あっ、そ、そうだ。冥加さんが起きたとき用に、もう少しお粥作り置いておくね」
「え、ええ。ありがとうございます」
無理矢理話を切る形で、私は足早にキッチンに向かった。
何かしていないと、落ち着かない。
顔は熱いまま。
唇に残る熱もまた、そのままで。
「〜〜〜〜〜っ」
思い出すだけでも頭が真っ白になる。
そのたびに冥加さんを思い出しながら、私のお見舞いは終わったのだった。
+ + + + + + +
「――――全く、だから言っただろう」
心底呆れきった表情の冥加さんが、私を見下ろしている。
今度は、私の部屋で。
お見舞いの日から数日。
見事に風邪をひいた私は、熱を出して寝込んでいた。
菩提樹寮の私の部屋に、冥加さんが来るのは初めてだ。
いつもだったら、おもてなしをしなくてはならないと思うのだけれど、残念ながら今の私にはできないことだった。
「君にピッタリな看病人を連れて来たぞ」
朝から看病してくれていた隣人は、そう言っていつの間にかどこかへ行ってしまっていた。
どうやら二アちゃんが冥加さんを連れて来てくれたらしい。
きっとまた、余計なことをしたと怒られそうだったので、こちらからは連絡しなかったのに。
そしてできる事なら、冥加さんに知られる前に、治したかったのに。
「冥加さんは、もう大丈夫なんですか?」
掠れた声で問いかけると、冥加さんの眉間の皺はますます深くなった。
「病人に心配されるほど軟ではない。見ての通りだ」
「そう・・・それは良かったです」
「良いわけないだろう」
ため息交じり。
呆れきっている。
そんな態度なのに。
「!?」
冥加さんは優しく私の唇に触れた。
そっと舌で下唇を舐められると、ぞくぞくとした妙な感覚が背筋を通り抜けていく。
「な・・・に・・・?」
言動が一致しなくて、ただでさえ働かない頭は処理能力が追いつかない。
それでも冥加さんは止まらない。
「っ」
啄ばむようなキスを繰り返す。
この間の激しさはなくて、むしろその逆。
まるで壊れものを扱うように、ひたすら優しい。
初めこそ驚いたものの、私はすぐに目を閉じて冥加さんを受け入れた。
こんなふうに思いを伝えられるのは初めてだったから、ほんのり心も温かくなる。
「・・・お前が欲張りだから、こんな事態になるんだ」
キスの合間に冥加さんが囁く。
「誰が全部持って行けと言った。お前が持っていったものの半分は、返してもらう」
「でも、そうしたら、また冥加さん、風邪ひいて・・・」
「半分なら問題なかろう」
そう言ったのはお前だと、私の反論をはっきりと拒む。
口調はいつも通り素っ気ないけれど、私を見下ろす眼差しは穏やかだ。
「どうした」
「冥加さんが優しくて嬉しい」
「何を言い出すかと思えば」
冥加さんはこつんと私の額を小突いた。
「大人しく寝ていろ」
「はい」
冥加さんの手はひんやりしていて気持ち良い。
額からずれて頬に触れた手に、知らずにすり寄っていた。
「小日向・・・」
驚いたような冥加さんの様子が、薄靄のかかった意識の遠くで伝わってきたような気がしたけれど、突然襲った猛烈な眠気に勝てなかった。
だから、気のせいかもしれない。
「おやすみ」
今まで聴いたことのないくらい優しい声で、冥加さんがそう言ってくれたような気がしたのは。
満たされた想いが心の中にじんわり伝わっていく。
幸せってこういう瞬間を言うのだろう。
すぐ近くに冥加さんを感じながら、私はそのまま眠りについた。