はんそく




 電気が通っていない夜は、びっくりするほど真っ暗で何も見えない。
 ゆきはこの世界に来てそのことを知った。
 それでも、今まではほんのりとした灯りだけでも十分だった。
 何も見えなくなることに、こんなに不安を感じるようになったのは、再びこの世界にやってきてからだ。


「・・・ごめんね」


 ゆきがそう小さく呟くと、くすりと笑い声が耳元でした。


「何に対する謝罪か分かりかねるのですが」


 薄明かりに浮かび上がるのは、金髪碧眼の、ゆきが大好きな笑顔だ。
 アーネストはゆきの手をぎゅっと握り返しながら、そっと彼女の額にキスを贈る。


「お姫様の願いを叶えるのは、あなたの騎士として当然のことです」


 ゆきは真っ赤になりながらも、アーネストの気遣いに嬉しさと申し訳なさが浮かぶ。
 二つの世と合わせ世を救ってから、一度は自分の世界に戻ったゆき。
 そこでアーネストの想いに触れ、勢いのまま再びこの異世界へと舞い戻ってきた。


 幸いにも、そんな彼女を、アーネストは受け入れてくれた。
 今度は、突き放すことなく。
 ここで、最上の幸せがもたらされたはずだったのだが。


「一人で眠れないなんて、子どもみたい」


 別れていたときの名残なのだろう、アーネストが常に見えていないと不安になるのだ。
 昼間は良い。
 彼は有能な外交官なのだから、仕事でゆきのそばを離れるときも多いが、身の回りには誰かしらそばに人がいる。


 しかし夜はそうではない。
 公使館は静まり返り、外からも内からも、生き物の気配が感じられない。
 生き物の・・・否、アーネストの。
 隣の部屋にいることは分かっていても、もし目が覚めて、彼がいなかったら。
 出会えたことは夢なのかと思ったら、不安はとめどなく溢れた。


「呆れたでしょ? 一緒に寝てほしいなんて」


 最初、枕を抱えてアーネストの部屋を訪ねたときの、彼の驚いた顔といったらなかった。
 珍しく驚愕していた。
 申し訳ないと思いつつ、こうして傍に居させてもらっている。


「別に呆れてなんていませんよ」

「でも、さっき凄く驚いてた」

「それは、婦人が夜半に異性の寝所を訪れれば、誰でも驚くのでは?」


 その言葉を非難と取ったのか、ゆきの表情が曇る。


「うん、そうだね。ごめん」


 しゅんとうなだれてしまった彼女に、何故かアーネストも顔を歪めた。


「ゆき、やめて下さい」

「あ、ごめ・・・・・・」

「ああ、もう、本当に、あなたは何も分かっていない」


 開きかけたゆきの唇に長い指を当てると、アーネストは困ったようにため息をついた。


「ただでさえ我慢しているんです。そんなに可愛らしい顔をされたら、理性が保てなくなります」

「我慢?」


 そんなに無理を強いていたなんて。
 ゆきは申し訳なさに耐えられず、身を起こそうとした。
 しかし。


「行かないで」


 それよりも早く、アーネストの腕がゆきの華奢な体を捕えた。
 全身彼のぬくもりに包まれて、鼓動は大きく跳ね上がる。


「アーネスト?」


 自分の心臓の音がうるさくて、でもそれ以上に耳元に届く彼の鼓動も速くて。
 そっと顔を上げると、ちょうどアーネストがゆきの顔を覗き込んできた。


「!」


 そのまま流れるような動きで、二人の唇が重なる。


「あっ、アーネスト・・・?」


 何が起こったのかとっさに分からず、でも唇に残る確かなぬくもりに、ゆきは頭の中が一気に真っ白になった。
 鼓動は痛いくらいに速い。
 顔はこれ以上なく上気している。


 恐る恐る再びアーネストを見ると、彼のほうが身を起こした。
 ちょうどゆきを見下ろすように。


「あなたにそのつもりがないのは分かりますけれど、その無防備さが身の危険を招くことがあるのだと、ちゃんと分かってくれないと」

「危険?」


 首を傾げたゆきに、アーネストは覆いかぶさった。
 そっと、ゆっくりと、ゆきに体重を掛ける。


「重いですか?」

「う、ううん、平気・・・」


 触れたところから、互いのぬくもりを分かち合う。
 それを愛しく感じていると、彼の唇が耳元で開いた。


「ほら、これであなたは私にとらわれましたよ?」

「え・・・?」


 かすれた低い囁きが、ゆきの鼓動をさらに速める。
 今まで聴いた度の声よりも艶っぽい。
 熱を帯びた吐息が、耳元を犯す。


「ゆき」


 甘い声に、うっとりと頭がぼんやりしてくる。
 しかし、彼の囁きははっきりと聞こえた。


「愛しています。もう二度と放したくない。このままずっと、こうして私の腕の中にいて下さい」


 鼓動は痛いくらい激しく打ち付けていたが、同じくらい早鐘を打つ音がすぐ近くから聞こえてきた。
 ゆきは無意識のうちに、アーネストの背中に手を回していた。


「――――うん、ずっと、つかまえていて」


 一度は拒まれたぬくもり。
 それが今、自分を包み込んでいる。
 ゆきが望んだものが、彼女の細い腕の中に。
 そう思ったら、やっぱりきゅっと胸が痛んだ。
 少しのことでも不安になってしまうなんて情けないと、申し訳なさげに耐えられず、ゆきは顔を上げた。
 と。


「アーネスト?」


 目の前の彼は、ほんのりと目元のあたりを赤く染めながら、驚きの表情を浮かべている。


「どうしたの?」

「どうしたのではありません。あまり私を試さないでください」

「試す? 私、アーネストを試したりしていないよ?」


 本気で訳が分からない、といった顔で首を傾げると、何故かアーネストは少しムッとした。


「たまにあなたのその無邪気さが、ひどく残酷なものに感じられます」

「どういうこと?」


 さらに問いを重ねようとしたゆきだったが、


「ちょっと、黙っていていただけますか」

「!」


 その先の言葉を拒むように、アーネストの唇に塞がれてしまう。
 しかも、今度は触れるだけではない。


「ん!」


 戸惑うゆきの唇を割って、アーネストの熱が口内を侵食する。
 初めて受け入れるそれは、意地悪く彼女の歯列をなぞり、ゆっくりゆきを甘く溶かす。
 驚きながら視線を上げると、信じられないほど近くにいるアーネストと目が合った。
 すると、すっと彼の目が細められた。
 まるで、呆然とするゆきを楽しむように。


「ん、っ・・・待って!」


 やっとのことでそれだけ言うと、素直に彼はわずかに距離を開けた。
 それでも、お互いの吐息がかかるくらいの位置に顔がある。
 艶然と微笑むアーネストを見ていられなくて、ゆきはぎゅっと目を閉じた。


 鏡がないから分からないが、きっと相当顔は真っ赤になっているだろうという自覚がある。
 そのくらい思考まで熱に犯されている。
 するとようやく、アーネストが口を開いた。


「どうしてそんなに照れているんです? 誘ったのはゆきですよ」

「・・・私、そんなことしてない」

「おや、私にしがみついてきたのは誰ですか。それは誘っていると取られてもおかしくないんですよ」


 指摘されてようやく、ゆきは自分のうかつさに気がついた。


「ご、ごめん・・・」

「謝られる覚えはないと、先ほども言ったはずです」


 くすりと笑ったアーネストは、もう普段の彼に戻っていた。
 そっとゆきの髪を梳く。


「あなたが無邪気に私を惑わすのは今に始まったことではありませんが、さすがに寝所を共にしたいと言われたら、私だって何もせずにいる自信はありません」

「う・・・うん・・・」


 はっきり指摘されると、自分がひどく大胆なことをしていたのだと気が付く。


「〜〜〜〜っ!」


 ゆきは恥ずかしさに耐えかねて、頭から毛布をかぶった。
 ――――せっかくアーネストと再会できたのに、なんてお願いしたんだろう。
 子どもじみているどころか、自ら男性を誘うだなんて。


「ゆき」


 激しく自己嫌悪に陥っているゆきを、アーネストは宥めるように優しく抱きしめる。


「でも、そんなあなただから、きっと私は捕まったのだと思います」


 本当に感謝しているんです、と耳元で囁かれると、心の奥が大きく震えた。
 恥ずかしさを凌いで、彼の顔を見たいという衝動が、ゆきの顔をそろそろと毛布から押し出させた。
 待ち構えていたように微笑むアーネスト。
 抱きしめるぬくもりは間違いなく、彼がすぐそばにいることの証――――。
 そう心の底から実感できた途端、ゆきの双眸からは無意識のうちに涙が流れた。


「ゆき? どうしましたか?」


 心配そうに顔をのぞくアーネストに、ゆきは首を振る。


「何でもない」

「何でもなくて、泣く人がいるんですか?」


 はらはらと零れ落ちる雫に、愛しい人はそっと唇を寄せる。
 確かな彼の熱が更なる涙を誘導した。


「困ったな。どうしたら泣きやんでくれますか?」


 両手でゆきの頬を包み込みながら、アーネストはそう尋ねた。


「私に出来ることなら何でもします」

「何でも? 本当に?」

「はい」


 アーネストがうなずくと同時に、ゆきは口を開いていた。


「ずっと一緒にいて」

「え?」


 ゆきはアーネストの両手に自分のそれを重ねて、もう一度同じ望みを口にした。


「アーネストと一緒にいたいの。こうして一緒にいられることが凄く嬉しいから。この先もずっと、傍にいてほしい」

「!」


 はっとしたように息を呑むアーネスト。
 しかしその表情はすぐに真面目なものに変わった。


「仰せのままに、My princess」


 恭しくうなずいた後で、「ただし」と彼は続けた。


「その望みを叶えるためには、一つ条件があります」

「条件?」


 はい、とにっこり笑ってから、アーネストはゆきの耳に、彼女しか聞こえないほど小さく、しかしはっきりと囁いた。


「私はずっとあなたのそばを離れません。だから、あなたはいつでも、私のそばで笑っていて下さい」

「それが条件?」

「そうです」


 わざと大袈裟に返事をしているのがおかしくて、ゆきは思わず吹き出してしまった。


「良かった。ようやく笑ってくれましたね」

「これで、アーネストは傍にいてくれるの?」

「そうですよ。毎日あなたが傍で笑ってくれて」


 アーネストはそこでいったん言葉を止めると、泣き笑いのゆきに再びキスを落とす。


「こうして私と、口づけを交わしてくれるなら」

「……なんか、条件が増えている」

「そうですか?」


 しれっと言い放つアーネストだが、表情は限りなく穏やかで、嘘をついている様子はまるでない。
 それが本当に嬉しい。


「もうっ、その条件で良いから」

「ふふっ、約束です」

「うん」


 うなずいたと同時に、そっと指を掬い取られる。
 アーネストは誓いを立てるように、ゆきの手の甲に唇を寄せてから、ゆきを見上げてきた。
 彼の熱っぽい視線がその先の行為を望んでいる。
 何かを考える前に、ゆきはそっと目を閉じた。


「ゆき」


 呼ばれて返事をしようとした唇は、言葉を発する前に塞がれてしまう。
 決して乱暴ではないのに、抵抗は一切許されない。
 甘い誘惑に抗うことなどできそうになかった。
 優しい彼の腕の檻の中で、ゆきは素直にその身を委ねた。







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