平和の中の波乱




 お昼休みの屋上で、私は凍りついていた。
 今日は天気も良くて、陽気も良い。
 何て晴れやかなお昼時だろう。
 しかし、私はそんな青空のもと、困惑のまま動けないでいる。


「どうした、沙弥?」


 原因は、目の前でにやりと笑っている人物――――そう、私の最愛の人。


「もとはと言えば、お前が俺の分の箸を忘れたのが悪いのだろう。俺は別に構わないが」


 ううっ・・・。
 その通りだのだ。


 玉依姫をめぐる騒動が終わった後、私たちには穏やかな日常が戻ってきていた。
 勿論、まだまだ街は復興途中で、人々の傷が完全に消えたわけではない。


 それでも、もう私たちの生活を脅かすものは何もない。
 みんなを――――響さんを傷つける存在はもういなくなったのだ。


 そんな平和な日々のひと時で。
 私は日常となった響さんのお弁当作りに置いて、彼の箸を忘れてくるという失態を犯したのだ。


 それまでの固形栄養食品とブラックコーヒーという食生活を、少しでもぬくもりのあるものにできればと始めて以来の失敗だ。
 そんな私に彼は嫌みの一つも言わなかった。
 代わりに。


「俺の箸がないなら、お前が食べさせる以外ないだろう」


 そんな要求を突き付けてきた。
 私は自分の箸にブロッコリーを挟んだまま硬直していたが、羞恥に耐え切れずに首を思い切り振った。


「や・・・やっぱり、無理ですっ! どうぞ、私のお箸をお貸ししますから、先に響さんが食べてください!」


 だが、そんな私の反応を予測していたのか、響さんはにやりと口元を歪める。


「交代で食べていたのでは、昼休みは終わってしまうぞ。そんな時間はないと思うが」


 その通りだ。
 反論できない私の代わりに、何を思ったのか響さんは箸を私から奪い取る。
 そして。


「ほら」


 表情を一つも変えず、私が響さんに渡せないでいたブロッコリーを差し出してきた。
 箸の先にあるブロッコリー。


「ええと・・・」


 それと響さんの顔を見比べるが、彼の無言の圧力には勝てなかった。
 私は恐る恐る、口を開いて、ブロッコリーを口に入れる。


 先に食べろということなのだろうか。
 そんなことを思っていると。


「!?」


 それはあっという間だった。
 いきなり腕を掴まれたかと思うと、強引に唇を重ねられた。
 それだけじゃない。
 先輩は驚いた私の口から、さっき含んだばかりのブロッコリーを奪い取っていったのだ。


「ひっ、響さん・・・!!?」

「お前が、箸で食べさせるのは嫌だというから、直接いただくことにした。ああ、確かにこちらでも良いな」

「よ・・・良くありません!」


 事の事態を認識した私は、真っ赤な顔で必死に訴える。


「お、屋上には、人がいるんです。こんなところ、誰かに見られたら・・・!」


 恥ずかしくて生きていけない。
 知らない人に見られるのもそうだが、屋上には知った人が来る可能性だってあるのだ。
 駄目駄目と首を振る私を見て、


「そうか。それもそうだな」


 響さんはどこか納得したようにうなずいた。
 分かってくれたのだろうか。
 そんな望みを抱いていた私の期待は、次の彼の言葉で打ち砕かれる。


「こんな可愛い顔を誰かに見られるのは癪だ。お前自身をいただくのは二人きりになるまで待とう。今は弁当だけで我慢してやる」


 こっそりと、私の耳元でささやく。


「そういうわけだから、今日は俺の部屋に泊って行け。良いな」


 低音の、甘い声。
 出会った頃はこんな言葉を掛けられるとは思っていなかった。


 だから、つい彼の言う通りにしてしまう。
 自分だけの特権だと思うから。
 うなずきながらも、悔しさがなくもないので、ささやかな反論をしてみる。


「今日も、の間違いですよ・・・」

「ああ、そうだな。明日も、の間違いだ」


 ・・・・・・やっぱりというか。
 響さんは私が困るところを見て、確実に楽しんでいる。
 私の反論なんてあっさりかわして。
 その蕩けるような笑みで、甘い言葉で、長い指先で、簡単に私を翻弄していく。


「明日の事は、まだ、です・・・」

「さあ、それはどうだろうな」


 意地悪い笑顔が私を見下ろしている。
 そこに優しさが含まれていると知っているのは、きっと私だけ。
 その優しさも私だけのもの。
 それがとてつもなく嬉しい。


 響さんにはこれからもずっと振り回されていくのだろうが、それでも二人一緒にいられるならそれでもいい。
 そんな幸福な未来を、今日も私は待ち望んでいる。








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