HOME





「ただ今、アンジェ」


「おかえりなさい」


 財団での仕事を終えて帰ってきたレインを待っていたのは、いとしい妻のアンジェリーク。
 いつものように微笑む彼女の笑顔を見た瞬間、レインの研究者としての顔が一気にほころんでいった。


「今日は早かったわね。研究、うまくいったの?」


「ああ。ばっちりだ」


「それは良かったわ」


 賑やかな港町から少し離れたところに、アンジェリークとレインの住まいはあった。
 潮騒がかすかに聞こえるその場所で、二人は緩やかに、しかし確実に愛を育んでいる。
 

 エレボスの浄化から、気がつけばいつの間にか時が経っていた。
 人々はすっかりとタナトスの脅威を忘れ、大陸全体が幸福に満ちている。


 もちろん、この二人も例外ではなかった。


「ちょうどお夕食の準備が整ったところなの。さあ、座って」


 アンジェリークがレインの手を引いて、リビングまで引っ張っていく。
 それに苦笑しながら、レインは彼女の言うままに、テーブルについた。
 彼女の言っていた通り、すでに夕餉の支度は出来上がっている。


「ああ、今日もうまそうだな」


「ふふっ。ありがとう」


 焼きたてのパン、よく煮込んだビーフシチュー、それにレモンの効いたドレッシングをかけたレタスのサラダ。
 シンプルではあるが、アンジェリークの愛情がたっぷり注がれている。


「じゃあ、いただきます」


 丁寧に手を合わせてから、レインはスプーンを手に取った。
 そのまま目の前で湯気を立てているシチューをすくい上げる。


「・・・・・・ん?」


 何口かシチューを食べたところで、レインはじっとアンジェリークがこちらを見ていることに気がついた。


「どうしたんだ? 何かオレの顔についているか?」


「えっ? あ、私、ぼうっとしていて・・・」


 恥ずかしそうにうつむいたアンジェリークから少し視線を落としてみると、彼女のお皿にはまだ全然手がつけられていないことが分かった。


「何かあったのか?」


 とたんにレインの顔が真剣さを帯びる。
 アンジェリークの顔を曇らせる原因は、何であっても放っておくわけにはいかない。
 がたんと椅子を引いて、思いきり身を乗り出したレインにびっくりしたアンジェリークは、ぶんぶんと首と両手を振ってみせる。
 顔を真っ赤に染めながら。


「ち、違うの! 大したことじゃなくて・・・いいえ、大したことよね、これは・・・ええと、何て言ったらいいのかしら・・・」


 珍しく彼女が取り乱している。
 最初はレインに語りかけているはずなのに、終わりの方は独り言になってしまっている。


「アンジェ? 分かるように説明してくれ」


「その・・・あのね! 驚かないで聞いてね」


 しばらくぶつぶつと自問自答を繰り返していたアンジェリークは、ようやく勢いよく顔を上げた。
 そして、そっと口を開いて、穏やかにはっきりと告げる。


「えっと・・・出来たみたいなの」


「は?」


 最初レインはアンジェリークの発言の意味が分からなかった。
 首をかしげると、焦れたように彼女が言葉を重ねる。


「だから、赤ちゃんができたの!」


「え・・・?」


 見る見るうちにレインの目が限界まで見開かれる。
 その反応がさらに恥ずかしかったのか、アンジェリークは床で食事をとっているエルヴィンへと視線を向けた。


「最近調子がおかしかったから、お医者様に見ていただいたの。そうしたら・・・」


「本当か!?」


「きゃっ!」


 強い力で肩を掴まれたので、アンジェリークは顔をしかめたが、掴んだ方のレインはそれを気にしている余裕がなかった。


「本当なんだな!? 本当に、オレたちの子が・・・」


「え、ええ。お医者様はそうおっしゃっていたわ」


「アンジェ!」


 レインは席を立って彼女のもとへ駆け寄り、思いきりアンジェリークを抱きしめる。
 バランスを崩して彼女がレインに寄り掛かったのを見て、はっと身を放す。


「わ、悪い! 嬉しくてつい・・・おなかの赤ん坊は大丈夫か?」


「レインたら」


 あたふたと焦るレインの姿を見た途端、アンジェリークは思わず吹き出していた。
 少しでも心配した自分が馬鹿だったと思ったのだ。
 もしも、レインが新たに宿った命を厭わしく思ったらどうしようと思っていたが、完全に杞憂に終わった。


「そうか、オレたちの子か・・・!」


 呟きながら、ゆっくりとレインは喜びをかみしめている。
 心から喜んでいるのがよく分かった。


「アンジェ」


「なあに?」


 喜びをかみしめているレインの姿を見るだけで幸せになっていたアンジェリークは、伸びてきた彼の腕にそっと包まれた。


「ありがとう。オレたちの子を宿してくれて」


「レイン・・・」


「お前もおなかの子も、オレが一生守っていくから」


 レインはアンジェリークと、彼女のおなか、両方にそうはっきりと告げた。


「もっともっと、幸せになろう」


 このレインの言葉に、何故か涙がこみ上げてきた。
 アンジェリークは声にならない思いをどうにか伝えたくて、精一杯首を縦に振り続けた。









back