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「ふう・・・」


 不意に聞こえてきたため息に、アンジェリークははっとした。
 ウォードンにある双塔の広場の一角だ。
 首都だけあって、昼間のウォードンは行きかう人は皆、忙しそうだ。
 その中にあって、一人だけ肩を丸めてベンチに腰掛けている人物がいた。


「はあ・・・」


 その人物はまだ若い。
 と言っても、自分よりは年上だろうとアンジェリークは思った。
 その女性は、恐らくは自分でもため息を量産していることを自覚していない。
 沈む表情を見ているうちに、アンジェリークの気持ちまで一緒に落ちていくようだ。


「はあ・・・」


 このままにしておいてはいけないような気がして、アンジェリークが声をかけようとした時だ。


「?」


 視線に気がついたのか、その女性がこちらに顔を向けた。
 横顔だけでは気が付かなかったが、びっくりするほど美人だ。
 驚きのあまり言葉を詰まらせたアンジェリークに、美貌の主は静かに口を開いた。


「どうしました、お嬢さん。私に何か御用ですか?」


「あ、あの・・・!」


 凛とした声。
 落ち着いた問いかけに、とっさにアンジェリークは言葉を紡ぐ。


「ごめんなさい。何だかあなたが、とても悲しそうだったから」


「・・・・・・」


 アンジェリークの言葉に、女性は軽く目を見開いた。
 それから、どこか寂しげな笑みを浮かべた。


「すみません。どうやらご心配をおかけしてしまったようですね」


「そんなことありません!」


 気落ちしている女性に対して、アンジェリークは思いきり首を振った。


「私、目の前で悲しい顔をしている人がいるのを、黙って見ているしかできないのかなって、思ってしまったんです」


「・・・・・・」


 女王の卵として、人々の生活を幸せにする使命のある自分。
 けれど、目の前で落ち込んでいる一人の女性をどう慰めて良いのか。
 それが分からないでいる自分が、歯がゆくてたまらなかった。
 そんなアンジェリークを、女性はじっと眺めた後、


「・・・あなたが気に病むことはありません。ただちょっと、そうですね。恋人にひどいことを言ってしまって、落ち込んでいるところなのです」


 思いがけないことを口にした。
 恋人、と聞いて、アンジェリークの頭にレインの顔が浮かんだ。
 もしもレインにひどいことを言ってしまったら・・・。
 想像しただけなのに、とてつもない痛みが生じた。


「恋人に・・・それは、つらいですね」


「ええ。言ってしまってから後悔しても、遅いのですが」


 微笑む女性からは、だんだんと暗い空気が払われていっている。
 先ほどまでのような悲壮感は薄まっていた。


「でも、いつまでもここにいるわけにはいきませんね。ここで落ち込んでいる暇があったら、そいつに謝りに行けばいい」


 吹っ切れたのか、颯爽と女性は立ち上がった。
 同じ女性として、その姿はアンジェリークの目に鮮やかに移った。
 思わず見とれてしまったくらいだ。


「ありがとうございます。あなたと話しているうちに、こうしてはいられないと思えました」


 普段はこういう瞳をしているのだろう。
 強い意志を持った青緑色の双眸があふれんばかりの光をたたえて輝いている。


「では、失礼しますね」


 女性は持っていた大きなケースを抱え上げた。
 今にも立ち去ってしまいそうな彼女に、アンジェリークは慌てて別れの言葉を告げる。


「あ・・・! さようなら」


 軽く会釈をしたその人は、鮮烈な印象を残して、人ごみに消えていった。
 ぼんやりとその後姿を見送っていると。


「アンジェ!」


 聞き覚えのある愛しい声がアンジェリークを我に返した。


「レイン」


「悪い、待たせたな。ついつい色々な古書に目が映ってしまって」


「良いの。目的の本は買えた?」


「ああ、ばっちりだ」


 古書店帰りで紙袋を抱えたレインは、よほど気に入った品が見つかったのだろう。
 ほくほくとした表情だ。
 それを見ているだけで、アンジェリークも幸せになる。
 ――――だけど。


「うん? アンジェ? どうしたんだ?」


 突然暗い顔をしたアンジェリークに、レインは大きく息を呑む。


「オレが待たせすぎて疲れたか? だったら、どこかで休もうぜ」


「ううん、違うの。そうじゃなくて・・・」


 アンジェリークは先ほどの女性の言葉を思い出していた。


「さっき、恋人と喧嘩をしてしまったという人がいたのよ」


 それで、自分とレインが喧嘩をしてしまったら。


「それを考えたら、急につらくなってきて・・・」


「ああ、なんだ、そんな事か」


 深刻そうなアンジェリークに対して、レインは大きく笑いだした。


「笑い事じゃないわ。私、本当に・・・」


「ああ、悪い。そんなことを考えているなんて、その・・・可愛い、と思って」


「レインたら・・・」


 さっと顔を赤くしたアンジェリークと同じように、レインも頬に朱を引いた。


「あ・・・いや、そんな、起こるか分からないことに、お前が悩む必要はないんだ。別に、オレたちが喧嘩する必要もないだろう?」


「・・・そうね」


 考えてみれば、その通りだ。
 喧嘩するのが嫌だったら、喧嘩をしないようにするだけ。
 思えば簡単なことだ。


「さっきいた人、凄く綺麗な人だったわ。そんな人でも恋人とのことで悩んでいるんだもの。何だか安心したわ」


「お前も、悩んでいるのか?」


 心配気なレインの声に、アンジェリークは微笑みを浮かべる。


「悩んでいるわ。こんなに幸せでいいのかしら、って」


「アンジェ・・・」


 瞠目したレインは、すぐにあの自信に満ちた笑顔を見せた。


「だったら、これからも目いっぱい、お前を悩ませてやる。覚悟しておけよ?」


「ふふっ。よろしくね、レイン」


 どちらからともなく、お互いの手を握る。
 温かい相手の体温とともに、改めて幸せをかみしめながら、二人は家路についた。









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