かえり道




 ・・・・・・今日は、思えば朝から何だか、同僚たちの目に宿る好奇の光が強かった。
 いつものように警吏の集まる詰所に出勤すると、早々に中にいた同僚がニヤリと笑みを浮かべながら、片手を上げた。


「よぅ、悟浄! 相変わらずのろけあっているか?」

「のろけあっているって、俺たちは普通に生活しているだけで・・・」


 朝から開口一番そんな挨拶をされれば、さすがの悟浄も呆れた表情をする。
 反応に困る悟浄の声を聞き付けて、初めに声を掛けてきたのとはまた違う同僚が、詰所の奥からわざわざ顔を出した。


「やっぱ既婚者は良いな。それにお前、奥方に今日は特別奉仕してもらえるんじゃないか?」

「は? 何を言っているんだ。俺は毎日玄奘に十分すぎるほど尽くしてもらっている」

「いや、そうじゃなくて」


 同僚たちは顔を見合わせて、「だってなあ」といった風に、意味深に笑う。
 その意味が分からなくて、悟浄は訝しげに首を傾げた。


「何だ。一体何を言いたいんだ」

「・・・いや、多分、もうしばらく気付かないでいたほうが、幸せは膨らむと思うぞ」


 一番仲の良い同僚に、ぽんと肩を叩かれた。
 それでも彼が何を言いたいのか、悟浄にはさっぱり分からない。
 皆何か言いたそうな顔をしているくせに、結局誰ひとりとしてそのわけを説明してくれる者はいなかった。
 仕方なしに、悟浄は釈然としないまま、その日の仕事に取り掛かったのだった。


 いったん警吏の仕事についてしまえば、忙しさで朝のやり取りのもやもやも薄れていった。
 今日も都は、平和な顔の下に小さないざこざを抱え込んでいる。
 それほど大きな事件はなかったものの、道案内から狼藉者の指導、失せもの探しなどを行っているうちに、あっという間に夕暮れになっていった。


「おい、悟浄!」


 都の見回りを終え、再び詰所に戻ってくると、悟浄を待ちかねていたのか、すぐに声がかけられた。


「何だ?」

「お客さんだよ」

「俺に客?」


 誰だろうかと詰所の奥の部屋にひょいと顔をのぞかせる。
 すると、そこには同僚に囲まれた、錯覚かと思うほど嬉しい人物が座っていた。


「玄奘?」


 悟浄の声に、彼女はぱっと顔を上げた。


「悟浄、お疲れ様です」

「どうしたのですか。俺、何かまた忘れ物でも・・・」

「いえ、そういうわけではないのですが・・・」


 その先を言いづらそうにしている玄奘の言葉を、同僚たちがつなぐ。


「お前を迎えにきたに決まっているだろ」

「わざわざ奥方が迎えに来てくれたんだぞ」

「ほら、さっさと帰れ!」


 同僚たちはやや強引に、玄奘とセットで、さっさと悟浄を詰所から追い出してしまった。
 ろくに帰りの準備もできないまま、何が何だか分からないまま。
 とりあえず玄奘と一緒に即刻帰れということだろう、ということだけは理解した悟浄は、隣でぽかんとしている玄奘にはっとした。


「す、すみません! あいつら、急にわけのわからないことを・・・」

「あ、いえ。そのことに驚いているわけではないのです」


 玄奘は何を思ったのか、そっと悟浄の顔へ手を伸ばした。


「げ、玄奘・・・?」


 彼女の細い指が、そっと悟浄の頬を包み込む・・・・・・寸前、ぱん、という乾いた音が響いた。


「っ!」


 両方から挟み込むように頬を叩かれた悟浄は、痛みというよりは、その衝撃に驚いた。


「ど、どうしたのですか?」

「どうしたの、ではありません! やっぱり気づいていなかったんですね」

「え?」


 良く見ると玄奘は不満に頬を膨らましていた。
 その顔を見て、急速に焦り始める悟浄。
 おろおろする姿が可笑しかったのか、すぐに彼女の表情は崩れた。


「あなたらしいと言えばあなたらしいのかも知れませんね」


 苦笑に近い笑みを浮かべながら、玄奘は、今度こそ悟浄の頬を両手で包み込むように優しく触れた。


「今日は何の日ですか?」

「今日、ですか・・・?」


 彼女の手から伝わるぬくもりと、彼女の機嫌を損なってしまったのではという不安から、悟浄の声はいつもより小さい。
 彼なりに必死に考えていることが分かったので、これ以上責めるような口調になるのは気の毒な気がした玄奘は、あっさりと種明かしをした。


「今日は、あなたの誕生日なのですよ」

「あ・・・」


 言われてようやく思い出した。
 朝から同僚たちの様子がおかしかったのも、このせいだろうとようやく合点が言った。


「それなのに、あなたはあまりにもいつも通りで。気になって迎えに来てみれば、同僚の方たちから、やはりあなたは自分の誕生日に気が付いていないと聞きました」

「あ・・・いえ、そんな大層なことではありませんので・・・」


 大げさなくらい首を振って見せる悟浄に、玄奘は口をとがらせた。


「では、あなたのために、朝からあなたの好物ばかりごちそうを用意して、あなたの仕事場まで迎えに来てしまった私のしたことは、大層なことではないのですね」


 わざと意地悪く言った玄奘の言葉に、悟浄は慌てて首を振る。


「いえ! そんなことは・・・!」


 そこまで否定したところで、悟浄はぴたりと動きを止めた。


「悟浄?」


 どうしたのだろうと玄奘が見守る先で、茫然とした表情の悟浄が、相変わらず小さな声でおずおずと尋ねる。


「あ・・・あの、では、俺のために、わざわざごちそうを用意して下さったんですか?」

「そうですよ。お義母様に作り方を教えていただいたんです」

「・・・・・・」

「悟浄?」

「っ、すみません」


 悟浄は玄奘の手を振り払い、さっと顔を背けた。
 その顔が赤いことは、どうやっても隠しきれない。
 あまりにも嬉しすぎる事実に、何と言って良いか分からない。
 とりあえずお礼を言わなければ、と再び視線を玄奘に移すと、何故か今度は彼女が顔を反らしていた。


「あの、玄奘・・・?」

「すみません。あなたの顔が赤かったのが、うつってしまったみたいです」


 困ったように笑う玄奘を見ているうちに、ようやく気持ちが落ち着いてきた。
 今度は悟浄から、彼女に手を伸ばした。


「ありがとうございます、玄奘」


 包み込むように優しく、細い玄奘の体を抱きしめる。


「こんなに、自分の誕生日を嬉しく感じたことは、ありません」


 あなたがいてくれて、良かった。
 そう囁くと、玄奘は耳まで真っ赤になった。


「あなたが喜んでくれれば、それで良いです」

「勿論、これ以上ないほど喜んでいますよ。俺にはやはり、あなたしかいません」

「私だって、あなたしか・・・」


 そこまで言ったところで、先に玄奘が気がついた。
 今自分たちがいるのは、まだ都の大通りのど真ん中だったということに。
 夕暮れ時なので、親子連れはもう家に引っ込んでいる。
 だが、これから飲みに繰り出そうとしている若い男性たちが、ちょっと遠巻きにしながらも、興味津々な眼差しで二人を見ていた。


「っ! ちょっ! 悟浄!」


 一気に我に返った玄奘は、ばっと悟浄から離れた。
 そこでようやく悟浄も周りの視線に気がついたようだ。


「あ・・・は、早く帰りましょう!」

「そ、そうですね!」


 揃って顔を真っ赤にしながらも、自然と手をつなぎながら帰っていく二人に、取り巻いていた人々は何とはなしに生温かくその行方を見守っていた。








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