街道にて
「逃げるぞ!」
「は、はい!」
緊迫した声が耳元に届いたと同時に、紗依は手を引かれ、慣れぬ着物に苦戦ながら走り出した。
「逃がすな!」
背後では野太い大きな声が、まるで二人に絡みつくように不吉な響きを持って、こだました。
「お前はここにいろ」
そう言って街道脇の茂みに紗依を隠した男―― 一刀斎は、今来た道に向き直ると、追っ手の到着を待った。
すぐに、乱暴な足跡とともに、荒くれ者の手本のような人相の悪い男たちが一刀斎の前に、ずらりと立ち並んだ。
「観念しな。おとなしく、さっさと有り金と女を出せ」
真ん中にいた、数人の男の中でもひときわ体格の良い者が、代表してお決まりの台詞を口にした。五人もの刀を持った追いはぎと一人で対峙しては、さしもの武士も身の危険を感じるところだ。実際、そうして金を巻き上げた経験があるのだろう。男たちの顔には、一様に余裕の表情が浮かんでいる。
だが。
「拙者に恨みを持つ者かと思ったが、ただの追いはぎか」
余裕綽々な態度で構えているという意味では、一刀斎も負けていなかった。
相手の意外な反応を、侮辱だと感じたのだろう。真ん中の男の眉がつりあがった。
「ぐだぐだ言ってねえで、さっさと言う通りにしろ!」
男の剣先が、まっすぐ一刀斎の眉間に向けられる。だが、それに臆した様子もない一刀斎の答えは、あっさりしたものだった。
「断る」
「何だと?」
「お前たちにくれてやるものなど、何もない」
きっぱりと言い切る口調は、いつもと変わらぬ、まるで今日の天気の話をしているかのように、危機感のかけらもない。
木の陰で息を潜めながら、紗依ははらはらしながら一刀斎と追いはぎたちの会話を見守っている。
城を出て数日。
追っ手からの恐怖を感じなくて良いと、ほっと気を抜き始めたとたん、この状況だ。愛しい人と旅ができるという幸せをかみ締める余裕もない。
まだ日も高い頃だが、山道を通る街道は人気がない。というより、こういう輩が出るということで、旅人や商人は遠回りをしてこの道を避けて通っているようだ。確かそういう話を、昨日の宿の主人がしていたような気がする。
・・・今更気がついても、後の祭りなのだが。
それにしても、と紗依は思う。
彼はこんな危ない目に慣れているなんて。
今まで命のやり取りを数え切れぬほど繰り返してきたのだから、平穏に暮らしてきたわけはない。生と死の狭間で、絶えず気を張って、心を満たそうとして心を削っていた。肉体的にだって、傷つくときはあっただろう。
しかし、こうして一緒にいて、改めてその異常さに気がつく。
そして、一抹の不安がよぎる。
――――私は本当に、この人を癒してあげることができるんだろうか。
「ふざけるな!」
「!」
タイミングを合わせたような追いはぎの怒鳴り声に、紗依はびくりと肩を震わせた。
「この、てめぇ、人がおとなしくしていれば良い気になりやがって! 金と女で命は助けてやるといってんじゃねえか! 死にてぇのか!」
迫力のある怒声に紗依は身を凍らせるばかりだが、一刀斎は違う。
「クックック・・・」
この場にはふさわしくない、笑い声が彼の口から漏れる。否、彼の場合は当然の反応なのかもしれない。
「気でも狂ったか!」
そういう追いはぎの気持ちも分からなくはない。
怪訝と怒りを含んだ不審な目を向けられても、一刀斎の態度は変わらなかった。思わず紗依でさえ、どうしたのだろうと首を傾げてしまう。
だが、次の一刀斎の言葉で、全てが飛んだ。
「あれは拙者の女だ。誰にも渡したりはせぬ」
――――え?
放心状態の紗依が我に返ったのは、追いはぎを叩きのめした一刀斎が、彼女に手を差し伸べながら声をかけてきたときだった。
「大丈夫だったか?」
「あ、はい」
いたわりの言葉にうなずいてみたものの、紗依はまだどこかぼんやりとしていた。
ここへきてはじめて一刀斎の表情が変わった。
「どうした、どこか怪我でもしたのか?」
追いはぎと退治していたときとは明らかに違う、穏やかな声音を聞いて、ようやく紗依は笑みを見せた。
「えへへ〜」
「・・・どこか打ったのか?」
笑みを見せたものの、にやにやと一刀斎の顔を見上げる紗依に、いっそうの不可解さを抱く一刀斎。
「本当に、どうしたのだ」
「あれは拙者の女だ。誰にも渡したりはせぬ」
「なっ・・・!」
紗依は先ほどの一刀斎の言葉を口にした。そして、
「すごく嬉しいんです。そんな風に言ってもらえて」
そう言って、そっと一刀斎の手を握る。
「ほんとに、本当に嬉しくて・・・」
一時的にでも、不安に駆られた自分が嫌になった。彼は大事に思ってくれているのに。その分だけ、何か返せたら良いのに。
「紗依・・・」
「え?」
だんだんとうつむいていく紗依を、不意に一刀斎が抱きしめた。
「い、一刀斎さん! ここ、道の真ん中ですよ。誰か来たらどうするんですか!」
「どうせ、あの追いはぎどもを恐れて、誰も通らぬ」
確かにそうかもしれないが。
そう反論しようとした紗依だったが、しかし、彼女を包むぬくもりにほっと安堵して、結局言葉が出てこなかった。
じっと一刀斎に身を預けている紗依の耳元で、彼女にしか聞こえぬようそっと一刀斎はささやく。
「拙者には、お前がいてくれるだけで十分だ。お前は違うのか?」
「!」
紗依の心中を読み取ったような言葉に、思わず涙がにじんだ。
「な、泣く奴があるか!」
「すみません。でも、嬉しかったから・・・」
「お前は・・・」
一刀斎は紗依の目元に唇を寄せると、そっと涙をぬぐう。
その優しい好意が紗依の心に染み渡った。
ここまで思ってもらっていて、足手まといは嫌だ。彼を支えられるくらいに強くなりたい。
改めてそんな思いが浮かんでくる。
「・・・お前こそ、どうなのだ?」
「え?」
不意に投げかけられた相手の質問の意味を図りかね、紗依は首をかしげた。
一刀斎はややいいにくそうに言葉を続ける。
「拙者と一緒にいるということは、また今のような危険な目に遭うということだぞ。それでも良いのか」
そんなこと、と言いかけて、紗依は言葉をとめた。
返事をする代わりに、訝しげに眉を寄せる一刀斎の隙をつき、背伸びをして彼の頬にそっと口付ける。
「私はあなたのものですから」
そうつけ加えると、目を見開いている一刀斎に向かってふわりと微笑んだ。
あっけにとられたようにじっと紗依を見つめていた一刀斎だったが、その表情がふと緩んだ。そこからはとても、人の命を奪うことに喜びを抱いていた狂気はうかがえない。
思わず見とれてしまった紗依の目の前に、一刀斎の顔が迫る。
言い知れぬ安堵が広がっていくのを感じながら、紗依は目を閉じて、静かにそれを受け入れた。