髪梳き
「神子殿、おはようございます」
いつものように始まった京での一日。
誰よりも早くやってきたのは、鷹通さんだった。
「おはようございます。今日もよろしくお願いします」
「こちらこそ、京の人々のために頑張りましょう」
「はい!」
同じ屋敷でお世話になっている天真くんや詩紋くんよりも早く顔を出すのだから、鷹通さんはかなりの早起きさんだ。
本来のお仕事もあって忙しいはずなのに、疲れた様子は全然見せず、眠そうにしているところも見たことがない。
こうして朝早くても、身支度もきちんとしていて、隙がない。
眼鏡の奥の理知的な瞳は、いつも平和な京の姿を追い続けている。
あまり年は変わらないはずなのに、随分しっかりしているから、自然と私の背筋も伸びるのだ。
「・・・あれ?」
ふと私は鷹通さんには珍しい部分を見つけて、少し体を傾けた。
「神子殿、どうなさいました?」
「動かないでください・・・あ、やっぱり」
私は部屋にあった鏡を鷹通さんに向けた。
「髪の毛がほつれていますよ」
「あっ、これは・・・」
鏡を覗き込んだ鷹通さんも驚いたように軽く目を見開いた。
「先ほど木に引っ掛けてしまったのです。これは、ご婦人の前で失礼いたしました」
そう言うと長い髪の毛を束ねていた留め具をはずす。
髪の毛を束ねていない鷹通さんも、髪の毛を束ねていた留め具も、私にとっては初めて見るものだった。
「そうだ。鷹通さん、ちょっとそこに座っていてもらえますか?」
「ええ、それはかまいませんが・・・」
「あ、髪の毛はそのままにしていてくださいね」
「あっ、神子殿!」
疑問符を浮かべている鷹通さんを残して、私は藤姫に櫛を借りに行った。
櫛箱ごと借り受けて部屋へ元へ戻ると、どこか所在なげに座っている鷹通さんがいた。
その姿に少し笑みを漏らしつつ、私は彼の背後に回った。
「痛かったら言ってくださいね」
どの櫛を使ったら良いのかと考えながらそう言うと、私の意図を理解した鷹通さんは慌てたように振り返った。
「い、いけません。神子殿にそのようなことをしていただくなんて・・・」
「そんなこと気にしていません。さあ、前を見てください。あ、鏡も置いておきますね」
「し、しかし・・・」
解せない様子の鷹通さんを無理矢理前向かせて、私は鷹通さんの長い髪の毛にそっと櫛を入れる。
櫛はなめらかに髪の毛を梳いた。
「こんなに長いのに痛んでないなんて、ちょっと羨ましいです」
「そうですか? あまり手入れなどしてはいなかったのですが・・・」
うつむきながらそう答える鷹通さんは、少し恥ずかしそうだ。
「私はこんなに長く伸ばしたこともないので、何だか憧れます」
「神子殿は伸ばされないのですか?」
「うーん。挑戦しようと思ったことはあったんですが、途中で挫折してしまいました」
それで結局いつもの長さにきっちゃうんです、と私は笑い飛ばした。
すると鷹通さんは肩を揺らして穏やかに笑った。
「神子殿はその髪形が良くお似合いですから、無理して伸ばす必要などありませんよ」
何の照れもなくさらりとそう言ってのけられると、思わず聞き逃してしまいそうになる。
幸い、ちゃんと意味を理解した私は、思わず手を止めた。
「や、やだなぁ、そんなに気を遣わなくても良いのに」
「いえ、私はそのようなつもりでは・・・」
生真面目に反論しようと振り返りかけた鷹通さんの肩を、私はがっちり掴む。
「あはは、さあさあ、作業が進まないので、前を向いていてください」
顔を見られないように、鷹通さんを振りかえらさない。
――――あんなの、反則だよ。
髪型を褒められたくらいで、こんなに嬉しくなるなんて。
駄目、今絶対顔が赤くなっている。きっと頬の筋肉だって緩んでいるに違いない。
こんな顔見られたら、おかしい子だと思われちゃう。
深呼吸して心を落ち着けると、私は作業を始めようとした。
そのとき、何気なく彼の前に置かれている鏡に気が付いた。
「えっ!?」
それを見た私の口から驚きの声が上がる。
よく磨かれた曇り一つない鏡は、綺麗にものを映し返している。
そこに映っていたのは、私の驚く顔と、そんな私の顔を、息を呑むほど真摯なまなざしで見つめる鷹通さんだった。
私に気が付いた鷹通さんもはっとした。
「す、すみません。女性の顔をまじまじと見つめるなど・・・」
「い、いえ。き、気にしてませんから、全然」
動揺を落ち着けるために、私は何度も深呼吸する。だが、あまり効き目はなかった。
「あ、あの、髪を整えるんでしたよね。時間かかっちゃってごめんなさい」
かすかに震える手で、慌てて髪を束ねた。
「えーと。こ、これで大丈夫ですよ」
なんて言ったものの、いつもよりちょっと不恰好な気がする。
けれど、震えた手でこれ以上いじったら、もっと悲惨なことになりそうだったので、あえて手を加えたりはしなかった。
「ありがとうございます」
そんなことは知らない鷹通さんは、丁寧に頭を下げた。
その様子は、いつもと全然変わらない。
ほっとしたのかそうでないのか、何だか複雑な気分だ。
私の懸念は、緩んだ顔を見られたときの鷹通さんの反応だった。
――きっと、見られたのだと思う。見られたくなかったあの顔を。
でも、鷹通さんは別段気にした風がない。
ということは、なんとも思わなかったってことなのかな?
解釈に苦しむ私の耳に、不意に「ああ・・・」という何か思い出したような鷹通さんの声が届いた。
「何となく、友雅殿のお気持ちが分かったような気がします」
「え? 友雅さんの?」
何? いきなり、どういうこと?
鷹通さんと友雅さんて、まるでかけ離れているような気がするんだけど・・・。
新たな謎に首を傾げる私だったが、返ってくるのは鷹通さんの笑顔ばかり。まるでそれが答えと言わんばかりだ。
「さ、神子殿。今日はまだ始まったばかりです。今日も京の人々のため、頑張りましょうね」
「え、あ、はい・・・」
では、神子殿の準備ができるまで、外に控えています、と言って、鷹通さんは部屋を出て行ってしまった。
「・・・・・」
一人残された私は、何が何やら・・・。
とはいえ、いつまでも鷹通さんを待たせるわけにもいかない。
――――それに。
私は先ほどの鷹通さんの笑顔を思い出した。
それに、嫌われているわけじゃないから、まあ、いっか。
我ながら、楽天的だと思う。
でも本当に、それだけで十分なのだ。
「よし」
ぱん、と両頬を叩いて気合を入れる。
そして私は、私を待っている人の元へ急いだ。