彼女のわがまま




「ゆきくん」


 公務を終えて自室に戻ってきた小松は、極めて不機嫌であった。


「お疲れ様です・・・?」


 労いの言葉をかけつつ、その視線の厳しさにゆきは首を傾げた。
 今日は一日屋敷の中にいたので、何か彼に迷惑をかける事はしていないはず・・・食事の時には厨へ手伝いに行ってお女中の皆と、


「奥さまはお部屋でお休みになられていて下さい」

「でも、何か手伝わせて下さい」


 と、ひと悶着があった事はあったが、もしかしてそれが気に入らなかったのだろうか。
 それとも猫の平田氏と一緒に、夕方頃にまどろんでしまった事が不謹慎だったか。
 考えても答えが見つからなかったので、ゆきは黙って夫の先の言葉を待った。
 すると、彼は想いも書けないことを口にした。


「君、今日西郷からお菓子をもらったでしょう」

「あ、はい」


 仕事で薩摩藩邸に寄った西郷から、お土産だと言って、ゆきは羊羹の包みを受け取っていた。
 ますます表情を渋くした小松は、さらに続ける。


「それと、桂君からは京の干菓子、桜智からは花束と瓦版、龍馬からは万華鏡、チナミからは筆と硯、サトウくんからは舶来の髪留め、目付殿からは首飾り・・・・・・間違いないね?」

「は、はい・・・」


 それらはすべて、今日ゆきのもとに届いたものだった。


「そして、総司からは新選組代表で西陣織、高杉からは金蒔絵の文箱が届いた」


 淀みなく並びたてたところで、いよいよ小松の目つきは鋭くなった。


「それで?」

「ええと・・・?」


 何が「それで?」なのであろうか。
 困ったようにゆきが見上げると、小松はこめかみを押さえながら、不機嫌もあらわに乱暴に言い放つ。


「私に何か、言う事はないの?」


 苛々とした小松の堪忍袋は切れかけている。
 ゆきは必死に頭を働かせた。
 今日、今日は・・・・・・。


「あの、私、今日で一つ年をとりました」


 ようやくそれだけ告げると、今度は深いため息を吐かれた。


「どうして今日が誕生日だと黙っていたの」

「黙っていたわけじゃなくて、小松さん、お忙しそうだったから」

「じゃあ、どうして他の皆は知っているの」

「この間、たまたまそういう話題になって」


 忙しい小松の留守を気遣ってか、ゆきのもとには割合多くの来客がある。
 それはかつて戦いを共にした仲間であったり、小松の知人であったり、様々だ。
 ほんの些細な会話の端に上った話題だったので、ゆき自身はすっかり忘れていた。
 そんなゆきの様子に、いよいよ小松の怒りの限界も迫ったと見え、ひどく目つきが恐ろしい。


「え、ええと。私自身もすっかり忘れていたというか」


 慌てて弁解しようとするが、ピリピリとした怒り心頭の小松の雰囲気にのまれ、うまく言葉が出てこない。
 結局は素直に頭を下げていた。


「すみませんでした」

「まったく、謝罪の言葉はいらないよ」


 ぴしゃりとそう言い切られて、正座でかしこまるゆきはうなだれた。
 そんな彼女の様子を見て、ようやく小松も落ち着きを取り戻したようだ。


「君の迂闊さは知っているつもりだし、私がそれを好ましいとさえ思っているのも事実だけれど」


 そう言いながら、小松はゆきを抱き寄せる。


「私ばかりが愛しい君の誕生日を知らないなんて、君は夫に恥をかかせるつもり?」


 思いのほか強く抱きしめられ、ゆきは驚いた。
 こうして触れあう事は初めてではなかったが、やはりまだ緊張してしまう。
 急に大人しくなったゆきを見て、小松の口元に笑みが浮かんだ。


「どうしたの? 気分でも悪いの?」


 ゆきが首を振るのが分かっていて、わざとそう問いかけてくる。
 しかも、耳元で、甘く、囁くように。
 そのたびにゆきは、心臓が止まりそうなほど速い鼓動と、どうしようもなく赤面する顔を隠すのに必死だ。
 だが、そんなことは百も承知の小松が、素直に隠されてくれるはずもない。


「ゆきくん」


 凛とした声で妻の名を呼ぶと、躾けられたようにちゃんとゆきが顔を上げる。
 真っ赤になって戸惑う表情が、言葉にならないくらいに愛おしい。
 小松は抱き込むようにゆきの顎を捕えると、そのまま身をかがめた。


「!」


 慣れない行為にゆきはぴくりと身を震わせるが、それすらも小松には愛らしくて仕方がない。
 名残惜しそうにゆっくり顔を離すと、今しがた触れていたゆきの濡れた唇が目に入った。
 赤く腫れたような唇に理性を崩されそうになるのを堪えながら、しかしいっそうゆきを近くに引き寄せた小松は、先ほどの、彼からしたら忌々しくて仕方ない話題に話を戻した。


「それで、君は何が欲しいの?」

「いえ、私は・・・・・・」

「何? 他の男の贈り物は受け取れるのに、私のは受け取れないというの?」


 再び小松の視線が冷たくなる。


「そういうわけではなくて、小松さんからは毎日、たくさん幸せをいただいているので、これ以上何かをいただくのは・・・」

「私は妻に対して当然のことをしているだけなのだけれど。それとも、そんな行為が殊勝に映るほど、私は冷血漢だと思われているのか」

「そんな、小松さんは優しい人です」


 それこそ当然だと言わんばかりに、はっきりとゆきが断言したので、小松は目を丸くした。


「そ・・・う、それなら私が特別な贈り物をしたいと思っても、かまわないでしょ」

「それは・・・」

「ほら、何でも私におねだりしてごらん。私が君の願いを叶えてあげるから」


 これはいよいよ、贈り物を辞退することはできない状況になってきた、という事はさすがのゆきにも分かった。
 とはいえ、何をねだれば良いのかについては、さっぱり浮かばないのだ。


 一度は別れたが、小松への想いに気がついたゆきは、再びこの異世界へと戻ってきた。
 小松とともに生きていくために。
 自分の想いを抑えて、敢えてゆきを現代へと帰してくれた彼の想いを、いわば無にするように戻ってきたというのに、彼は今まで見たことがないほど嬉しそうにゆきを受け入れた。


 そうして、彼の妻として、信じられないほど幸せな毎日を送っている。
 これ以上何を望めば良いのだろう。


 だがここで何も言わなければ、きっと明日起きたときには、無数の着物やら鏡台やら簪やらがこの部屋を敷き詰めるであろうことは、何故か確信を持って予測できた。
 どうすれば・・・・・・。


「あ」


 長い沈黙の末、ゆきはひとつだけ答えを見つけた。


「何? あまり私を待たせるものではないよ。気が長い方ではないからね」

「あの」


 小松の語尾にかかるように、ゆきは勢い込んで言葉を繋げた。


「私に、ご飯を作らせて下さい!」

「は?」


 渾身のゆきのお願いは、よほど小松の予想の範疇を超えていたと見え、珍しく大きく目を見開いた。


「私は君に、我儘を言ってほしいと言ったはずなのだけれど」

「はい、だからそれが、私の願いです」

「食事を作りたいというのが?」


 頭を悩ませてようやく得た答えに満足したように、そうです、とゆきは嬉しそうにうなずく。


「小松さんの妻らしいことがしたいです。いつもお女中の皆さんが作って下さるご飯はとてもおいしいんですが、私も小松さんのためにご飯が作りたいです」


 ゆきは、自分のための望みはあまり口にしない。
 甘いものが好きだとはいえ、小松から誘って甘味処へ連れていくことはあっても、ゆきのほうからねだってきたことはない。


 良く考えてみれば、彼女は最初からそうだった。
 弱い龍神の力を補うために、自分の命を削り続けた少女だ。
 保身のために神子を辞めてもよさそうなところで、彼女はいつでも苦しみに歯を食いしばりながらも、絶対に諦めることをしなかった。


 そんな彼女だからこそ、心を惹かれたのだろうし、甘やかしたいと思うのだろうと小松は思う。
 今まで出会った女人の、誰とも違う。誰よりも強く、魅力的だ。


 そんな彼女に堂々と我儘を言わせられる機会が誕生日であったはずなのだが、結局彼女の口から出てきたのは、小松を喜ばせる望みだった。


「まったく・・・」


 それが彼女というべきか。
 そんな彼女が己を選んでくれたことだけでも僥倖と考えるべきか。


「・・・まあ、時間はたくさんあるからね」

「小松さん?」

「何でもないよ。ああ、それと、食事は夜だけだよ」

「どうしてですか?」

「朝は、少しでも私の腕の中に留めておきたいから。昼は、客人に愛しい妻の食事を振舞ってやるのが気に食わないから。だから夜だけ」


 淀みなく並びたてられた理由は、理にかなっているようで、ひどく我儘なものだ。
 それでもゆきは素直に喜んだ。


「ありがとうございます」

「礼を言うべきは、私の方なのだけれど」


 これではどちらの祝いか分からない。
 だが、ゆきが嬉しそうなので、小松はそれで良いことにした。
 小松には、己の生まれた日を祝う習慣はなかったが、彼女を公然と甘やかせる日なら、毎年楽しみになるかもしれない。
 それに。


「私の誕生日のときは、思い切り君を困らせるつもりでいるから、今から覚悟しておいて」


 誕生日とやらが己が願いを通せる日なら、心待ちにするのも仕方ないことだろう。


「分かりました」


 自分のときはどんな我儘を言ってやろうか・・・小松がそんな黒い期待に胸躍らせているとは露知らぬゆきは、素直に返事をしてから、明日からの献立を考え始めていた。


「ああ、そうだ」


 今更だけど、と言いながら、小松は唐突にゆきの唇を塞いだ。


「きゃ、小松さ・・・んっ」

「そう、それ」


 わずかに唇を離した、触れるかどうかのギリギリのところで、まるでゆきの唇に囁くように、小松は続ける。


「君、いまだに私のことを『小松さん』と呼ぶのはやめなさい。今では君も『小松さん』なのだから」

「でもまだ慣れなくて・・・んんっ」


 弁解しようとしたゆきの唇を、再び塞いでから、小松はこの場に不釣り合いなほど爽やかに微笑んで見せた。


「私が甘いことを言っていたら、君の癖はいつまでたっても治らないでしょ。だから、君が私を名で呼ばぬ時は、こうして唇を塞いでしまうから」

「えっ」

「妻の悪癖を治すのも、夫たる私の義務だよ」


 清々しい笑顔で言い放っているが、ゆきにとっては笑いごとではない。


「さて、これまでの会話の中で、幾度君は私のことを名字で呼んだかな。ああ、良いよ。私がちゃんと数えていたから」


 嘘か本当か分からないことを大真面目に口にしながらも、小松は隙を突くように、啄ばむような口づけを繰り返す。
 ゆきはされるがままになるのが精いっぱいだが、薄く目を開くと、普段は見せない上気した艶やかな小松の顔が間近にあった。


 夫婦という関係になって、初めて分かった小松の表情は、きっとこれからも増えていくのだろう。
 それを見つけて行けるのだ。
 何て幸せなことだろうと、ゆきは思った。
 無意識のうちに彼の腕に縋ると、そのことに気がついたのか、小松は目を細めた。


「まったく、本当に、どこまで私を翻弄するんだろうね」

「ん・・・」

「困った姫君だ」


 そう言う小松には、もはやゆきを揶揄する様子はなくて。
 彼自身驚くくらい深く、ゆきを求めていた。


 ゆきが生を受けた記念日の期限はもう少し。
 日付が変わるまでにはまだ、時間があった。
 せめてその時まで、誰にも邪魔されることなく、二人だけの世界に浸っていても良いだろう――――


 勿論、日付が変わってからも、やめるつもりはないけれど。
 二人だけの特別な夜は、ゆっくりと更けていった。





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