怪我の功名
「ふう・・・」
酒も回り、だんだんと座もあれ始めてきたころあいを見計らって、紗依はこっそりと一人抜け出していた。
人が多いところも騒がしいところも嫌いではないが、酒の場にしらふでいるのは申し訳なかったし、お酒の勧めを断るのも申し訳なかったのだ。
一人になると大きな息をついた。
知らずに緊張していたらしい。
障子一枚隔てた座敷の中では、望月藩に仕える侍が大騒ぎしているのが聞こえてきている。
こんなにもみんなの声が明るいのは、きっと望月藩が良い藩だからなのだろうと、漠然と思う。
それは初姫の影響が強いことは明らかだった。
昔は手のつけようのないじゃじゃ馬として有名だった彼女だが、治基との一件があってからは藩の内政にも興味を示し始めていた。
今まではその気がなくて見向きもしなかったのだろうが、きっと君主になれば良い為政者となるだろう。
そんなことをぼんやりと考えていると、庭の向こうに見慣れた人物を見つけた。
「あ・・・」
紗依はそっと庭に下りて、降り積もった雪の上をすべるように歩いていく。
見つかっては遠くに行ってしまいそうだと思ったのだ。
もうすぐ彼の背中に手が届きそうなくらい近づいたとき、意外にもその人物が、紗依が呼びかけるより早く振り返った。
「やはりおぬしか」
「一刀斎さん、いつから気づいて・・・」
「おぬしが座敷から出てきたところからだ」
その人物――――一刀斎は煩わしそうに大きく息をついた。
「この城には一人になれる時間はないのだな」
「す、すみません・・・」
申し訳なさそうに頭を下げる紗依。
一方の一刀斎はといえば、肩をすくめただけだった。
「まあ良い。それで?」
「え?」
いぶかしげに一刀斎を見上げると、眼鏡の奥の紫の目が細まった。
「拙者に用があったから、ここまで追いかけてきたのであろう?」
そう言われても、彼の姿を見てとっさに庭に出てしまった紗依には、答えられる質問ではなかった。
「いえ、一刀斎さんが見えたから・・・」
「おぬしは人を見たら誰彼構わず追いかけるのか」
やや呆れたような一刀斎の声に、紗依はますます頭を深く垂れた。
――――怒らせちゃったよね。
やはり最初に声を掛ければよかったと、後悔が胸に押し寄せる。
そんな彼女の姿を見た一刀斎は、苛立たしげに舌打ちした。
「いや、別に怒っているわけではない。そういうつもりでは・・・ああ、いい。とにかく顔を上げろ」
「はい・・・」
紗依が顔を上げて、そこに涙がないことに安堵した一刀斎は、彼女の横をすり抜けていく。
「あ、待ってください!」
後ろから紗依がついてくる。
その事実が一刀斎の胸を熱くしているなど、彼女には想像できまい。
そのことが少し悔しくもあり、歩調は自然と速くなっていく。
「ま、待って・・・きゃあっ!」
紗依の悲鳴の後にどさりという音が聞こえて、一刀斎は振り向いた。
「い、いたた・・・」
腰を打ちつけたのか、雪で滑って転んだ紗依はすぐには立てないでいる。
一刀斎は彼女に歩み寄ると手を差し出した。
「え?」
「ぼうっとして雪の中に埋もれていたいなら構わぬが」
「い、いえ!」
あわてて紗依が一刀斎の手を掴んだ。
雪の中で、どれだけ考え込んでいたのだろう。
彼の手は氷のように冷たかった。
「怪我は?」
「あ、ありません」
「・・・ではなさそうだな」
一刀斎は目ざとく紗依が差し出した手を顔に近づけた。
「血が出ている。転ぶ際にどこかに打ったんだろう」
赤くにじんだ指を、何のためらいもなく舐める。
「いっ、一刀斎さん!?」
びっくりした紗依の声で、一刀斎ははっとした。
真っ赤な彼女の顔を見て、しまったと顔を歪める。
普通、好きでもない男に指を舐められたら、良い気はしないだろう。
特に自分のような男には。
とっさのこととはいえ、余計なことをしてしまったと思った。
「・・・気に障ったのなら、そこの手水で手を洗ってこい」
「いえ! そんなことありません。ありがとうございます」
紗依は大げさすぎるほど深く頭を下げた。
ふわりと微笑んだ顔を見たとたん、一刀斎はさっと顔を背けた。
「一刀斎さん?」
「何でもない」
短く答えると、再び一刀斎は歩き出した。
歩調はさっきよりもさらに速い。
「えっ、ま、待ってください!」
再び紗依が追ってくる。
だが一刀斎の歩みは止まらず、さくさくと雪を踏み渡っていく。
おいていかれないようにするのが精一杯だ。
――――どうしよう、また怒らせちゃったかな。
紗依が不安に駆られる一方で、一刀斎はというと、ほのかに染まった赤い顔を見られないように、夢中で進み続けていた。