キミに捧ぐ
「あ・・・あのね、私、次の週末に実家へ帰ろうと思うの」 「え?」 仕事帰りで私の部屋へやってきていた逸馬は、私の言葉を聞いた途端、読んでいた雑誌を落としながら、大きく目を見開いた。 「な、何で急にそないなこと言い出すんや。何か俺、お前を怒らすようなことしたか?」 あたふたと詰め寄る彼に、私はくすりと笑う。 「違うよ。そうじゃなくて、お母さんがね、久しぶりに帰ってきなさいって。予備校時代からずっとバイトと勉強づくめだったから、あんまり実家に帰ってなかったんだ」 きっかけは、私の家に届いた小学校の同窓会の葉書が届いたことだった。 それを知らせるために、お母さんが連絡を寄こしたのだ。 残念ながら、その日はバイトを詰めてしまっていたので出席できなかった。 その旨を伝えて用件は終わったのだけれど、その後少し最近のことを話したのだ。 「大学に入ってからの話をしていてね、急にお母さんが、『あなた、最近いい人できたの?』って。別に隠すことじゃないから、逸馬のことを話したの」 「ホンマか? そ、それで、お前のお母ちゃんは何て?」 「・・・・・・」 不安と期待がない交ぜになった眼差しを向けられて、私は言葉に詰まった。 年は同じだけれど学年は一つ上。 口が悪くて意地悪な時もあるけれど、誰よりも自分を思ってくれている優しい人。 実はお笑い芸人をやっている。 ・・・・・・等々基本データから、最近行ったデートコースとか、最近一緒に食べた物とか、普段一緒にいて何をしているかとか、様々なことを話した。 その結果、お母さんの下した判断は。 「一度、家へ連れてきなさいって」 少し浮かれ気味に話した私に対し、お母さんはとても冷静だった。 まあ、それも当然だ。 私は学園時代に痛い目に遭っているのだ。 その時はショックで立ち直れなくてずいぶんと悩んで迷惑をかけたし、それがきっかけで整形するまでに至ったのだ。 親としてみれば、今度もまた悪い男に騙されてやしないかと、心配なのだろう。 けど、そんなこと逸馬には言えない。 「急でごめんね。逸馬、今週末空いてないよね? とりあえず私だけでも行ってくるけど・・・」 「いや、心配せんでええ。何とか都合つけたる。確かに、ちゃんと挨拶せなあかんからな」 逸馬は真面目な表情でうなずいた。 それはそうかも知れない。 何しろついこの間、番組の企画でプロポーズシーンが全国に生放送されたのだ。 「実はな、お前の両親にはあのプロポーズの前に一度連絡したんや」 「えっ!? いつの間に?」 そんなことは初耳だった。 だが、逸馬は「そらそやろ」と、ちょっと呆れた顔をした。 「人様の娘を貰うんやぞ。関係者が知らんでどうする」 「当の本人は何にも知らされていなかったけれど」 「アホか。お前が先に知っとったら意味ないやろ」 ちなみに、逸馬の両親や、お好み焼屋のおばちゃんも知っていたらしい。 関係者の中であの企画を知らなかったのは、本当に私だけのようだ。 「ちょうど、直接会わなあかんと思うとったとこや。一緒に行こ」 懐かしい風景が、帰省する道すがら私の視界を埋め尽くしていた。 本当に忙しいスケジュールを調整した逸馬が、隣でうつらうつらと舟を漕いでいる。 ほとんど夜も明けた時間にようやく帰ってきて、その足で電車に乗ったのだから、仕方のないことだ。 広めの座席に身を預けた逸馬の頭の重みを肩に感じながら、私は来たるべき実家に思いを馳せていた。 上京する時、私は強い決意を秘めていた。 男の人に弄ばれ、綺麗になって絶対に見返してやるのだという思いは、その後の浪人時代の原動力になっていたと思う。 そのことがあって、今の自分がある。 でも、逸馬は私がダイエットに励み、整形手術を受ける前から、私のことを思っていてくれた。 たまに不安に思う。 私は、本当は無駄なことをしていたんじゃないかと。 もしかして、何もしないほうが良かったかも知れないと思うと、胸が潰れそうになる。 逸馬は派手な格好を好まない。 昔の、私が変えたいと思っていた私を好きだった。 ――――再会した時、逸馬はどれほどがっかりしただろう。 それでも私を好きだと言ってくれたけど、いつか愛想を尽かしたりしないだろうか。 「・・・・・・」 知らないうちにため息が出る。 ため息と一緒に不安も出ていってくれれば良いのに、胸の中にはもやもやとした思いが残ってしまった。 ふと窓に目をやると、ひどい顔をした自分が映っていた。 「なーに辛気臭い顔しとんねん」 「えっ?」 いつの間にか、窓には眠そうな逸馬の顔もあった。 「起こしちゃった?」 「いや。それより、今お前、何を考えてた? またつまらんこと考えとったら」 むくりと頭を上げた逸馬が、素早く私にキスした。 「っ! ここ、電車の中!」 「お前が変なこと考えたお仕置きや。俺の前でそないな顔したら、いつでもどこでもキスしたるから、覚悟しとき」 そう言って、くしゃくしゃと頭を撫でる。 何故か逸馬は口をとがらせていた。 「不安なんは俺のほうやっちゅーねん。ようやく両想いになれたんやから。ったく、どんだけ待ったと思うとるんや」 「逸馬?」 「何でもないわ。ええか、俺はお前の外見だけに惚れたんちゃう。それでも不安になるなら、何度だって証明したる」 返事をする前に、再び唇を重ねられた。 「も、もうっ・・・!」 何か言おうと思って口を開きかけたが、でも、不思議と心はすっきりとしていた。 逸馬、どうして分かったんだろう。 言いたいことだけ言って、したいことだけすると、逸馬は再び私の肩に頭を預けて、居眠りを始めた。 「ありがと」 ぽつりと呟いた言葉は、彼に届いただろうか。 その瞬間、少しだけ逸馬の表情が柔らかくなった気がした。 ――――ううっ、緊張する。 自分の生まれた家の玄関の前で、私は無性に緊張していた。 何度も通ったはずの入口のはずなのに、震えてインターフォンが押せない。 すると、後ろからすっと手が伸びてきて。 「何を戸惑っとんのや。ほら、行くで」 あっさりと逸馬がボタンを押した。 家の中でチャイムの音が鳴って、すぐに「はーい」というお母さんの声が聞こえた。 ぱたぱたと聞こえる足音に、鼓動はどんどん速くなる。 「何でお前のが緊張してんねん」 逸馬が苦笑した時、ちょうどドアが開いた。 「た・・・ただいま」 ぎこちない笑いを浮かべた私に対し、お母さんはいつも通り穏やかな笑顔で迎えてくれた。 「お帰りなさい。そちらが鷺森さんね」 「こんにちは」 深々とお辞儀して、顔を上げた逸馬を見たとたん、 「あら。あなたは」 お母さんは目を丸くした。 「どうしたの?」 「あ・・・いいえ。とりあえず中でお話しましょう。どうぞ、中へ」 促されるまま、私たちは家の中へ入る。 「お邪魔します」 逸馬は律儀にそう言ってから、きちんと靴を揃えて私の後ろをついてくる。 リビングにはお父さんの姿はなかった。 「お父さん、急に出張が入っちゃってね。さあ、座って」 「うん」 「失礼します」 並んでソファに座ると、すぐにお母さんがお茶を用意してくれた。 向かいにお母さんが座ったのを見計らって、逸馬が改まって頭を下げた。 「どうも、鷺森逸馬です。いおりさんと結婚を前提にお付き合いさせてもろうております」 「いおりがお付き合いさせていただいていたのは、あなただったのね」 「え?」 お母さんの言葉に、私も逸馬も驚いた。 「お母さん、逸馬のこと知っていたの?」 そういえば、逸馬、番組の企画が放送される前に連絡したって言っていたっけ。 お母さんがあの番組を見ていてもおかしくない。 それに、芸人まついは連日テレビに出ない日はないほどの人気ぶりだ。 それを知っていれば、お母さんだって逸馬を見たことがあるはず。 でも、お母さんの答えは私の予想を超えていた。 「何言っているの。鷺森さんは学園時代、あなたが休んだ時に心配して来てくれていたのよ」 「そうなの!?」 私は勢いよく逸馬を見た。 「お、お母さん、俺のこと覚えてはったんですか。しかもそれは内緒やゆうたじゃないですか。ここで言ったらあきませんやん」 「そう? もう時効よ」 にこにこしているお母さんに、慌てふためく逸馬。 二人交互に見比べる私は、何が何だか分からない。 「あなたがちょうど、学園時代にお付き合いしていた人と別れたくらいに、一週間くらい休んだことがあったでしょ?」 「う・・・うん」 あの時の事は思い出したくもないから、自然と思い気持ちになる。 雨宮君に振られた後、しばらく立ち直れなくて、学校を休んでいた。 「あの時ね、毎日配布物や課題を届けてくれたのが、鷺森さんだったのよ」 「えっ、だって、あれは織田さんが・・・」 「いいえ。鷺森さんが、織田さんのしたことにして下さいって」 私は逸馬に顔を向ける。 彼はこれ以上ないほど顔を真っ赤にしていた。 「本当? 逸馬・・・」 「ああ、もう、そうや! そやから、学園時代の時からお前が好きやゆうたやろ」 半ばやけになって、ついと逸馬は顔を背けてしまった。 けれど、顔が真っ赤だから、どんなことを言われたって、可愛いとしか思えない。 同じことを思ったのか、お母さんはくすくすと笑った。 「あなたがお付き合いしている方はどんな方か心配したけれど、鷺森さんなら安心だわ」 ほっとしたお母さんの顔を見て、やっぱり心配を掛けていたことが良く分かった。 お母さんは逸馬に向かって深々とお辞儀した。 「どうぞ、いおりをよろしくお願いします」 「やっぱり、お母さん気にしていてくれたんだな」 帰りの電車の中で、私はしみじみと実感していた。 逸馬の仕事の都合が土曜しかつかなかったので、日帰りになってしまったが、それでも十分だった。 色々な人の想いで、心が温かい。 「そらな。大事な娘がどこぞのアホに弄ばれたんや。次もおかしな男に捕まってへんか心配して当然やろ」 どことなくほっとした様子の逸馬の表情も明るい。 彼も彼なりに、私の親に気に入られるかどうかを気にしていたらしい。 「そういえば、お母さんが言っていた、『鷺森さんが天誅を下して下さったのよね』って、どういうこと?」 「あー・・・」 昔話のついでに、お母さんはそこまで話してくれたのだが、 「あとは鷺森さんに聞きなさい」 と、話の途中になっていたことを、私は逸馬に訊いてみた。 あの時のお母さんの顔が、何となく意地悪げに見えたのだけれど、気のせいだったのかな。 逸馬はため息をつきながら、こともなげに言い放った。 「お前が捨てられた後、俺、雨宮の奴をぼこぼこにしてやってん。そのことちゃうか?」 「えええ!?」 初耳だった。 「な、何それ!? 知らない!」 「そら、俺お前のお母ちゃん以外には、誰にも何もゆうてへんし。事情が事情やからな。特進クラスの優等生が普通科の女子を弄んだっちゅー噂を流されたら、体裁悪かったんやろ。あいつも何も言わんかったしな。お前の休んどる間、実は雨宮も休んどったんやで」 知らなかった。 そんなことがあったなんて。 しかも逸馬、私が捨てられたこと、知ってたんだ・・・。 「でも、暴力沙汰を起こしたら、停学どころか退学になりかねなかったんだよ!」 「大丈夫や。そない下手は打たん」 それに、と逸馬は、その時のことを思い出したのか、口をへの字に結んだ。 「許せるわけないやろ」 短い言葉だったけれど、そこには深い怒りが込められていた。 「何の因果か知らんが、大学まで同じやし。あ、お前気づいてたか? 雨宮も同じキャンパスにおるぞ」 「知っているよ。向こうは気づいてないけど」 「そうか。まあ、名乗っても気づくか分からんけど。あいつ、俺には近寄って来ぇへんねん。そらそやな。だから、講義以外はなるべく俺のそばにおれよ」 「分かった」 正直、今でも雨宮君のことを思い出すと胸が痛くなる。 あの痛みを忘れることなんて、きっとこの先もない。 けれど、今は逸馬がいる。 「明日の仕事は遅くなりそう? うちに帰ってくるんでしょ?」 「何や、お前んとこ行ってええんか?」 「講義以外そばにいろって言ったのは、逸馬だよ」 「ははっ、そうやったな」 にっこりと笑う逸馬。 この人の隣にいれば、私に笑顔がなくなることはない。 いつでも私を笑顔にする、一番大切な人。 「大好きだよ、逸馬!」 突然抱きついたにもかかわらず、逸馬はしっかりと私を抱きとめ、そしてにっこりと会心の笑みを私だけに見せてくれた。 |