傷跡





「あー。もう! 時間がないよ」
 私はばたばたと廊下を走っていた。
 廊下は走ってはいけません、と先生に怒られてしまいそうだが、今は勘弁してほしい。
「もう、すっかり忘れてたよ」
 ジャージ姿の私は、次の体育の時間に使うストップウォッチをとりに、教室へ走っていた。
 忘れないように、と思って早めに体育研究室から借りてきたのに、早めに借りすぎたのが裏目に出て、引き出しにしまったまますっかりストップウォッチのことを失念していたのだ。
 体育館から教室までは少し距離がある。
 残りの時間と往復の時間を考えると、走ってもぎりぎりなくらいだ。
 焦りで興奮気味の私は、勢いよく教室の戸を引いた。
「えっ?」
 まさかまだ教室に人が残っているとは思わなかった私は、思わず驚きの声をあげた。
「ん?」
 そこにいた人物も、私に気がついて振り返る。
「拓磨? 何でまだいるの?」
 と、言いかけて、今更ながら彼の格好に目を見開いた。
「ちょっ・・・ど、どうして上半身裸なのよ!」
 恥ずかしさのあまり自然と声が大きくなった。
 そんな私に、拓磨はやれやれといった感じで肩をすくめる。
「着替えてんに決まってるだろ」
 何故そのようなことも分からないのか、という意が込められたまなざしを受け、むっとする。
「そ、そりゃ見れば分かるわよ。何で教室で着替えてるの」
 この学校には、体育館の隣にちゃんと更衣室がある。
 そこのほうが体育館やグラウンドに近いので、便利なのだ。
 利便性を考えれば、教室で着替える生徒はいない。
 すると拓磨は私の視線から逃れるようにそっぽを向く。
 その態度で、私は一つだけ心当たりに気がついた。
「もしかして、その傷跡のせい・・・?」
「違う」
 すかさず否定はしたものの、ぷいと顔をそらせた拓磨の姿に、私は自分の言葉に確信を得た。
「ごめんっ・・・」
 無意識に出た言葉とともに、私は拓磨に駆け寄っていた。
 拓磨の体には無数の傷跡がある。
 ロゴスの人たちとの激しい戦いの証。
 私を守ったせいで、一生消えることはない。
 でも、こんなに傷を負わせても、私は彼に戦うことを強いたのだ。
 全てを、諦めたくなかったから。
「・・・そうだよね」
 こんなにひどい傷跡、尋常ではない。
 他人の目に触れれば、奇異の目で見られるのは必至。
 拓磨に傷跡があることを知っていながら、私は何も考えていなかった。
 あの戦いに終止符が打たれた時点で、何もかも終わったような気がしていたのだ。
 でも、違う。
 拓磨にはあの戦いの代償がしっかりと刻み込まれていた。
「拓磨は、一生この傷跡と過ごさなきゃならないんだよね・・・」
 命の危機は、何度もあった。
 お互いもう少しで、お互いを生かすために死ぬところだった。
 世界の行く末を決める戦いは、自然厳しいものと予測できる。
 でも、私が早く覚醒していれば、拓磨もこんなに怪我を負うこともなかったのだ。
 ――――この傷跡は、私の罪の証。
 拓磨の近くに寄ったものの、何をして良いか分からずうつむく私は、頭上にため息を聞いた。
 あきれているのだろう。
 そう思った直後。
 ドス。
 つむじあたりに衝撃が走った。
「いたっ!」
「ったく・・・」
 どつかれた箇所に手を当てながら、恐る恐る顔を上げると、拓磨の不機嫌な顔とあった。
 怒っている。
「ごめ・・・」
 もう一度謝罪の言葉を述べようとしたのだが、しかし、それはかなわなかった。
「バカだな、おまえは」
 ぎゅっと抱きしめられた私は、拓磨の言葉と行動が矛盾している気がしてならなかった。
 何故抱きしめるの?
 私に怒っているのではないの?
 それは、言葉にしなくても相手に伝わったのだろう。
 もう一度、拓磨は大きくため息をついた。
「おまえはこの傷跡の意味を分かっていない」
「え?」
「これはおまえを守り通せた勲章だ。それに、俺はおまえのものだという証でもあるな」
「!」
 私はびっくりしてがばっと顔を上げた。
 視線の先にある琢磨はいつもと変わらぬ、少し人をバカにしたような表情をしていたのに、今はそれがとても私の心を打った。
 だって、どれだけ険しい道の先にたどり着いたものか、よく知っているから。
「拓磨・・・」
 知らぬうちに私は拓磨の背中に腕を回していた。
 素肌越しに感じるあたたかさは、涙が出そうなくらい私を安心させてくれる。
 もう、心配しなくても良い。
 玉依姫とか守護者とか、関係ないんだ。
 封印だってない。
 このまま二人で・・・。
 そんな思いが届いたのだろうか。
「珠紀・・・」
 真剣な拓磨の声が耳を打つ。
「珠紀、俺は・・・」
 と、不自然なタイミングで言葉が途切れた。
 どうしたのだろうかと、そろそろと頭を上げると、拓磨の視線は一点で止まっていた。
「え?」
 つられて私もそちらのほうに目を向ける。
 そこにいたのは――――。
「ご、ごめん、チャイムが鳴っても全然来ないから呼びに来たんだけど・・・」
「き、清乃ちゃん!?」
 クラスメートの清乃ちゃんが、入り口のあたりで気まずそうに私たちを見つめていた。
「決して二人の邪魔をするつもりじゃなかったのよ。これ、ホント」
 そう言いつつ、清乃ちゃんはまじまじとたっぷり私たちに視線を注いでいる。
 そこで私は初めて気がついた。
 上半身裸の拓磨と抱きついているところを見られていて・・・。
「きゃああっ!」
 私は思いっきり拓磨を突き飛ばした。
 そして、非常に激しく勘違いをしているであろう清乃ちゃんに、あわてて弁解を始める。
「ち、違うんだよ、これは・・・」
「珠紀ちゃんて、意外と激しいんだね」
「へ?」
「だってその鬼崎君の傷跡、珠紀ちゃんの爪あとじゃ・・・」
「ちがあうっ!」
 妙にらんらんと輝く清乃ちゃんの誤解を解こうと、私は必死だ。
「絶対、違うんだからね!?」
「もう、そんなに否定しなくても、みんな二人のことは祝福しているって」
「だっ、だから!」
「その傷跡のことも黙っているから。ね」
「ね、じゃないよ!」
 あああ、絶対黙っていないんだ、この人は。
 放課後にはあらぬうわさが立っているに違いない。
 きっとそれを知ったクラスメートは、遠巻きに意味深げな視線を送ってくるに違いないのだ。
 それを想像すると、頭が痛い。
 どうしようどうしようとぐるぐる目が回る私の後では、のっそり拓磨が近づいてきていた。
 きっと私と同じことを思っているのだろう。
 拓磨は普段から清乃ちゃんをわずらわしく思っていたから、私以上にうんざりした気持ちになっていたのかもしれない。
「!? 拓磨っ・・・」
 全てが面倒になったのか、私を後ろから抱きしめると、拓磨は深い深いため息をついた。
 その日のうちから、私たちがみんなから夫婦として認識されてしまったのは、言うまでもない。





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