碧空のもとで
ゆっくりと、岸が遠くなっていった。
いつの間にかどこを見渡しても、広がるのは大海原。
舳先は意気揚々と水を切って進んでいく。
快適な船旅になるであろうと、これからのことを考えて期待に胸を膨らませていた紗依は、その考えが甘かったことに気づかされていた。
「うぅっ・・・気持ち悪くなってきたかも」
普段船に乗る機会などない生活を送っていたため、このようにたまに船に乗ってみると見事に船酔いをしてしまったのだ。
船が揺れるごとに吐き気がこみ上げてくる。
「どうしよ・・・このまま目的地までこのままなのかな・・・」
車であったら、途中で止まって車を降り、休憩することもできるだろう。
しかし、ここは船の中。
降りて休めるところなどない。
不安が広がっていく紗依に、頼もしい声が聞こえてきた。
「どうした、顔色が悪いようだが」
ものめずらしそうに、子どものように船内を散策していた紋山が帰ってきたのだ。
紗依の顔を見るなり、彼の顔が急に曇った。
「それが、ちょっと船酔いをしてしまったみたいで・・・」
すまなさそうに言う紗依は、強いて顔を上げると笑って見せた。
それがあまりにも痛々しく見えたのだろう。
紗依の傍らにひざをついた紋山の顔は、いつになく真剣である。
「すまぬ。全然気かずに・・・」
「いえ、そんなこと・・・」
そう言って首を振ろうとした紗依だったが、大きく揺れた船のために最後まで続かなかった。
「横になったほうが良い。さ」
そうだ、起きているのが悪いのだ。
進められるまま、体を横たえる。
「少し帯を緩めるか? きついのも大変なのではないか」
確かにそうかも、と思った。
着慣れぬ着物は、何度も紗依を苦しめた。
この状態でよくあの逃亡劇を繰り広げられたものだ、と思わず感心するくらい。
帯を緩めただけでずいぶんと楽になる。
ふう、と息を大きく吐いて目をつぶった。
と、
「そう、素直に従われるとな・・・」
「え?」
言っている意味が分からず目を開けると、思いのほか近くに紋山の顔があった。
「ちょっ・・・モンモンさん?」
「おぬしはこの状況を少しもおかしいとは思わんのか」
「えっ」
首をかしげる紗依を見た紋山は、困ったように大きなため息をついた。
「・・・いや、気づかんのであったらそれはそれで好都合・・・あ、いやいや。拙僧は決してそういう意味では・・・」
「?」
急にそわそわし始めた紋山にただ疑問符を並べるだけの紗依であったが、少し身を起こしたところで、彼の言わんとしていることを理解した。
直後、悲鳴が上がる。
「きゃああっ!」
紗依はあわてて襟をかき合わせた。
帯を緩めたせいで体は圧迫されることはなくなったが、代わりにしどけなく胸元が開いていたのである。
真っ赤になって身づくろいをしようとする彼女を、こちらもまたあせった様子の紋山が止めた。
「ま、待て! そんなに激しく動いては・・・」
「うっ・・・」
今までにない吐き気に襲われて、紗依は口元に手を当てた。
「よしよし。いっそ吐いてしまったほうが楽になるぞ」
背中をさすりながらそう言った紋山の言葉に、紗依の首は横に振られる。
「だが、無理はしないほうが良い。何なら拙僧が口で受け止めて・・・」
これには先ほどより激しい拒絶の反応が返ってきた。
それはそうだろう。
「うーむ・・・」
苦しむ彼女を見た紋山はしばし考え込んだのち、ポツリとこう提案した。
「では、拙僧と横になるのはどうだ?」
ちらりと顔を上げた紗依の目には、多少の疑いが浮かんでいた。
先ほどのことがあるからだろう。
だが、紋山はそれをすぐさま否定した。
「そ、そういう意味ではなくてな・・・」
そこまで言うと、なぜか言葉をいったん切った。
紗依からやや外れたところに視線をやりながら、気を取り直すように一つ咳払いをした後、
「その・・・拙僧の腕の中ならば、多少楽になるのではないかとな。おお、枕にもなるぞ」
己の無実を晴らすように早口でまくし立てる。
「きっと、おぬしが心配するようなことはせん・・・・・・多分」
「多分?」
「い、いや、絶対!」
必死に否定する姿がおかしかったのだろう。
紗依の顔に笑みが戻った。
そして、
「どうであろうか」
紋山の提案に、今度は首を縦に振った。
「はい・・・お願いします」
「あ・・・あの」
恐る恐る紗依が声をかける。
相手はいうまでもない。
目の前で一緒に横たわっている紋山である。
「ん? どうした?」
何も知らぬ顔でそう応じた彼に、紗依はちょっとむっとした。
「あの、さっきから何か腰の辺りがもぞもぞするんですけど」
「おお、それは面妖な。ねずみでももぐりこんでおるのかも知れぬな」
そ知らぬふりでそう嘯いてみせる紋山の顔が、直後歪んだ。
「じゃあ、そのねずみはこんな形なのかもしれませんね」
「いたたっ! ちょっと待て!」
容赦なくつねられた手を思わず引いた紋山は、赤くはれ上がった手の甲をさすりながら不満げに口を尖らせた。
「別に、女子の体を触ったくらい、良いではないか。減るものでもなし」
「何開き直っているんですか。ほんとにもう」
油断も隙もあったものじゃない。
ふう、とため息をついて紋山に背を向ける紗依。
赤くなった顔を彼に見られないようにするためだ。
・・・そう、いやなわけではない。
ただ、すぐには対応できないだけで。
慣れぬことだけに、いきなり求められてもうまく応えられる自信がないのだ。
「やれやれ、紗依は情けもないのう」
そう弱々しく呟く紋山は、それ以上迫ってくる様子はない。
それに心底ほっとする。
「そんなこと言って。それが人の体を勝手に触ってくる人の言い分ですか」
怒っている風を装っても、安堵の心中は隠しきれない。
自然とこぼれる笑みを隠すように、紗依は紋山に顔を見られないよう、毛布を頭からかぶった。
台詞から考えれば、怒って毛布の中に頭を入れてしまったと思うだろう。
本当は照れ隠しなのだが。
モンモンさんには悪いけれど、少し反省していてもらおう。
うん、と一つうなずく紗依は、熟れた頬を手で押さえた。
そんな彼女の内心を感じ取ったのか否か。
「・・・・・・」
紗依が気づかぬくらいかすかに、紋山は吹き出した。
そして、太くてたくましい腕を、そっと伸ばす。
紗依の予想とは反して、毛布の上から細い身をそっと抱きしめる紋山は、先ほどまでのふざけた調子からは考えられぬほど慈愛に満ちたまなざしで、飽きることなく紗依を見つめていた。