好物
「レイン? いる?」
陽だまり邸のレインの部屋のドアをノックしながら、アンジェリークは中の人物に声を掛ける。
今日は依頼もなく、おのおのが自由な時間を過ごしていた。
この屋敷の主人であるニクスは庭の手入れをしたり手に入れたばかりの珍しい紅茶を優雅に楽しんでいたり、ジェイドはキッチンの整理整頓をしていたし、ヒュウガは庭でやりの鍛錬をしていた。
そういうアンジェリークはといえば、研究に没頭するレインのために、ジェイドの邪魔にならないように差し入れを作って、こうして届けにきていた。
しばらく待ってみたが、返事はない。
だが、中にいるのは分かっているのだ。
少し迷ったアンジェリークだったが、思い切って空いている手でドアノブをひねった。
果たして、ドアはさしたる抵抗もなく、やすやすと彼女を迎え入れる。
「レイン?」
よほど集中しているのか、やっぱり答えは返ってこない。
そののめりこみ具合はすばらしいと思うのだが、もう少し周りを気にして欲しいと思う。
もって来たのは焼きたてのシフォンケーキ。
添えられている生クリームが程よく溶けているのが何とも魅惑的だ。
そんな絶妙のタイミングを逃しては、急いでレインの部屋にやってきた意味がない。
アンジェリークはレインがいつも向かっている机に急ぐ。
「レイン!」
そこには赤毛の少年が膨大な本の中で頭を抱えていた。
アンジェリークが間近に迫ってやっとその存在に気がついたみたいだった。
「ああ、アンジェリークか」
答えはしたものの、視線は相変わらず机の上の書類に落とされている。
「レイン、ケーキが焼きあがったの。食べない?」
「すまないな。そこに置いておいてくれ」
置いておいても良いが、このままでは日が暮れても手がつけられなさそうだ。
「少し手を休めない? 熱いコーヒーもあるわ」
「ああ。ありがとう」
と言いつつ、やはり上の空。
きちんと聴いているのか定かではない。
アンジェリークはため息をついて、近くに積んであった分厚い本の上にケーキとコーヒーを載せた盆を置いた。
そしてポツリと小さな声で呟く。
「せっかく、レインが好きだから作ってきたのに・・・」
「えっ!?」
生返事しか寄越さなかったレインが、アンジェリークの小さな呟きに大げさなほど反応した。
急に立ち上がったせいで、レインが驚きの声をあげた一息後、がたん、と激しく椅子が倒れる。
その様子に逆にアンジェリークのほうが驚かされた。
「な・・・何? どうしたの?」
「どうしたのって、お前・・・」
レインは目を見開いたまま、じっと彼女を見つめている。
一体どうしたと言うのだろう。
アンジェリークが首をかしげているので、もどかしく思ったのだろう、やや視線を落としながら、レインは一つ咳払いをした。
「い・・・今、言ったこと・・・本当か?」
「え? ええ、ケーキは焼き立てだし、コーヒーも熱いわよ」
「それじゃなくて・・・その、オレが好きだとか・・・」
いつもは歯切れの良い彼にしては、語尾が不明澄なほど言いよどんでいる。
それをいぶかしく思いながら、アンジェリークはあっさりとうなずいた。
「ええ。前に、生クリームがたっぷり添えられたシフォンケーキが好きだって、レイン言っていたじゃない。レインが好きだって言ったから、今回挑戦してみたんだけど・・・」
「は?」
レインの緑色の目が点になる。
相変わらず事情が分からずに、アンジェリークは戸惑ったままだ。
「私、何かおかしなこと言った?」
心底不思議そうな顔を見たとき、レインはこみ上げる笑いを抑えきれずに、盛大に吹き出した。
「あはは! そういう意味か!」
「え?」
いきなり腹を抱えて笑い出したレインに、ますます疑問が募っていくアンジェリーク。
「レイン? もう、どうしたの?」
笑われていることが不条理に思えたのだろう。
少し頬を膨らませて問い詰めたのだが、レインはただ笑いに笑うばかり。
「どうして笑うの? レインが好きなシフォンケーキがそんなにおかしいの?」
「はははっ、そうだな、面白いな」
抱腹絶倒とはこういうことを言うのだろう、という笑いっぷりに、アンジェリークは反応に困ってしまう。
涙まで浮かべて笑っていたレインは、ようやく冷静さを取り戻したのか、倒れた椅子を元に戻した。
「悪かったよ、笑ったりして」
その椅子に座って、背もたれに腕を置いたレインは、本の上に置かれている盆を手にとった。
「ああ、本当にまだ温かい。ありがたくいただくよ」
「え、ええ・・・」
せっかくレインがケーキに目を向けたというのに、アンジェリークは何だか釈然としない。
「ん? 何だ?」
「・・・だって、どうしてあんなに大笑いしたの?」
「・・・・・・」
レインは少し考え込むように、ケーキを一口含んで視線をさまよわせる。
その視線を追ってアンジェリークも部屋の隅に目を向けたが、山のように詰まれた本しか目に映らなかった。
しばらくそうしていたが、ふと彼が口を開いた。
何か言葉を発しようとしたが、しかし、結局言葉出てくることはなく、代わりにレインは軽く首を振っただけだった。
「何?」
「・・・いや」
口元には苦い笑いが浮かんでいた。
「レイン?」
アンジェリークの声が合図となったように、レインがもう一口ケーキをぱくつく。
そして独り言のようにさらりと言ってのけた。
「オレが好きなのはケーキだけじゃないんだぜ?」
「え?」
その一言がアンジェリークの耳に届かなかったのは、幸か不幸か。
きょとんとする彼女の愛らしい顔を見て、レインは晴れやかな笑みを見せた。