また会う日まで




「何や、あっという間やったな」


 すっかり片付いた部屋を見渡しながら、蔵ノ介さんは感慨深げにため息をついた。


 テニス部合同の学園祭のために、大阪から特別に招待された蔵ノ介さんは、学園祭の準備を含めた十日余りを、跡部委員長が用意したビジネスホテルで過ごしていた。
 無事に学園祭は終わり、いよいよ今日、蔵ノ介さんは大阪へと帰ってしまう。


 私は片付けのお手伝いのために、こうして彼の泊っていたホテルを訪れていた。
 片付けと言っても、引っ越し並みの荷物があるわけでもないので、すぐに出発の準備は終わってしまった。


 蔵ノ介さんは私の肩を掴んで、真面目な顔で言う。


「ええか。俺がおらん間、誰かに声かけられても、ホイホイついて行ったらあかんで。特に千石クン、彼は要注意や。自分優しいから、断りづらい時もあるやろけど、そんときはちゃんと、『断らないと蔵ノ介さんに祟られます』ゆうんやで」


 どこまで本気なのか分からないけれど、まっすぐ私に向けられる蔵ノ介さんの好意がとても嬉しい。
 だから、私も素直にうなずく。


「分かりました。大丈夫です」

「ホンマか? めっちゃ心配や」

「そんなに私、頼りないですか?」


 わずかに首をかしげる私に、蔵ノ介さんは大いにうなずく。


「心配や。静は無防備すぎて、俺がおらん間に、いつどこのアホに襲われるか分からへんと思うと胃が痛いわ」

「無防備ですか?」


 自分ではそんなことはないつもりだ。
 でも、蔵ノ介さんから見れば、どうやら相当に危なっかしいようで。


「ああっ、無自覚なんがさらに心配や」


 ぎゅうっと私を抱きしめた。


「なあ、静。やっぱ自分、大阪へ連れてってもええか? 自分軽いから、俺のバッグにも十分入る思うわ」

「そんな・・・無理ですよ」

 さすがに、蔵ノ介さんのバッグには入らないだろう。
 ・・・ついていきたいのは、私もだけれど。


 でも、そんなことができないのは分かっている。
 だからこそ、私は明るく笑った。


「大丈夫です。心配しないでください。一人になっても、蔵ノ介さん以外の人には興味持てませんから」

「約束できるか?」

「はい。任せてください」

「・・・俺、多分めっちゃ電話するで。それでもええか?」

「私もしますから。メールもいっぱい送っちゃいます」


 心配そうな蔵ノ介さんの顔を見ると、胸が締め付けられる。
 もうすぐ彼は大阪へ帰ってしまう。
 そう思うと、彼に抱きついて、帰らないでと泣き出してしまいそうだ。


 でも、そんなことしたら、きっと彼を困らせてしまう。
 だから、私は心の痛みを悟られまいと、必死に笑みを浮かべる。


「大丈夫です」


 そんなことをしているうちに、時間は容赦なく過ぎていって。
 新幹線の時間近づいていった。


「・・・ほな、行こか」

「はい・・・」


 ホテルを後にして、私たちは重い足取りのまま、駅へと向かった。
 二人並んで、人であふれる日曜の街を歩く。
 別れが近づくにつれて、私たちの間には自然と会話が途絶えていた。


「・・・・・・」


 胸がいっぱいになってしまって、何も言葉が出てこないのだ。
 多分、蔵ノ介さんも同じ気持ちなのだと思う。


 その間、私は楽しかった日々を思い出していた。
 学園祭の運営委員になったこと、そこで、他校から応援として来てくれた蔵ノ介さんと出会ったこと。
 準備は大変だったけれど、充実していて楽しかった。
 何より、毎日蔵ノ介さんと一緒にいられたことが、本当に本当に、幸せだったのだ。


「あ・・・」


 自然と涙がこみ上げてきた。
 初めて恋人になった人が、もうすぐ遠くへ帰ってしまう。
 そのことが、今更ながらに私に重くのしかかってきたのだ。


「静? どないしたん?」

「い、いいえ、何でもありません」


 私は慌てて顔をそむけて、溢れそうになる涙を何とかこらえる。
 ここで泣いては、蔵ノ介さんを困らせるだけだ。


「・・・・・・」


 背後から、蔵ノ介さんの視線を感じたような気がしたけれど、涙をこらえるのに必死な私は、それに応えられる余裕はなかった。


「はあ・・・。着いてしもたな」


 蔵ノ介さんのため息とともに我に返ると、もうそこはホームだった。
 大きな荷物を抱えた人たちが、足早に新幹線の中へ乗り込んでいく。


「結構ギリギリやったな。もすこし新幹線も気ぃ使うてくれてもええのに」

「本当。いつの間にかこんな時間・・・」


 余裕を見てホテルを出たはずなのに、のんびり歩いてきたせいで、発車の時間が迫っていた。
 蔵ノ介さんは新幹線のドアの間際に立つ。


 私は中には入れない。
 新幹線まであと一歩の距離。
 しかし、この一歩の差がとても大きかった。


「ほな、俺は行くわ。この十日間、ホンマありがとうな」

「そんな、お礼を言うのは私のほうで・・・!」


 ――――いけない!
 言葉の途中で、私は口元を押さえた。
 今口を開けば、絶対に泣いてしまう。


 けたたましく発車を告げる音楽が鳴る。
 そうだ、せめて、新幹線のドアが閉まるまで。
 それまで我慢すれば、きっと蔵ノ介さんを困らせずに済むから。


 その時、ホームに流れる放送と電車がひっきりなしに行きかう音の合間に、蔵ノ介さんの声が聞こえた。


「静」

「!?」


 はっとしたときにはもう遅かった。
 タイミングを計ったように、新幹線のドアが閉まる。
 緩やかに景色が動いていく。
 ――――そう、私の周りの景色が動いているのだ。


「・・・・・・」


 え、と思った。
 一瞬、何がどうなったのか、分からなかった。
 顔を上げると、すぐ近くに蔵ノ介さんの顔があった。
 彼も私と同じ、驚いた顔をしている。


「・・・しもた」


 最初に口を開いたのは彼のほうだった。


「すまん。つい、引き寄せてしもた」


 彼の言葉通り、私はいつの間にか、新幹線の中にいた。


「・・・はあ、やってしもたモンはしゃーないわ」


 開き直ったのか、蔵ノ介さんは改めて私を抱きしめる。
 そのぬくもりが、せっかくせき止めていた涙を、あっさりと引き寄せてしまった。


「あ・・・」


 遂に流れ出した涙を隠したくて、顔を背けようとした私だったが、それは彼の手によって阻まれる。


「目ぇそらしたらあかん。こっち見ぃ」

「でも・・・」


 私の抵抗もむなしく、蔵ノ介さんの手が私の頬に添えられて、思い切り泣き顔を見られてしまった。
 ひどい顔をしている。
 それに、せっかく笑顔で送り出そうとしていたのに、ここへきて泣くなんて。
 情けない思いでいっぱいの私に、何故か蔵ノ介さんはほっとしたように、大きな息を吐いた。


「良かったわ」


 ぽつりと、それだけ告げる。


「え?」


 どういうことかと首を傾げると、蔵ノ介さんはどこか恥ずかしがるようにはにかんだ。


「自分、俺との別れに際しても悲しまへんかったから、別に俺と離れ離れになっても平気なんかと、本気で思うたで」

「そ、そんなこと、あるはずないです! だって、泣いたら蔵ノ介さんを困らせるから・・・」

「静」


 私の言葉を無理やり阻んで、彼は静かな口調で言葉を紡ぐ。


「俺、ゆうたな。静のことがめっちゃ好きやて。だからな、静の想いは全部欲しいんや。俺に気ぃ遣うてくれんのはありがたいけど、そんなんいらん。今の正直な気持ち、ぶつけて欲しい」


 そう言って、私の背中を何度か叩く。
 そして、じっとわたしを見つめる蔵ノ介さんの目が、すっと細くなった。


「教えてくれへんか?」


 その声がとても優しくて。
 今度こそ、想いを止められなかった。


「蔵ノ介さんっ・・・!」


 私は彼のシャツを掴んで、見た目よりもずっと逞しい広い胸に顔を埋める。


「嫌です。離れたくないです。明日も明後日も、蔵ノ介さんと一緒にいたいです」


 帰ってほしくないという想いが、次から次へと涙を流させる。


「本当に、蔵ノ介さんのことが好きです。初めて想いが通じ合ったのに、もう今日離れなきゃならないなんて・・・そんなの嫌です」

「せやな。俺もや」


 私をなだめる蔵ノ介さんの手が温かくて、それだけでもう胸がいっぱいになってしまう。
 それ以上言葉が出てこなかった私は、ただ彼の胸で泣き続けた。
 そんな私の背中を、蔵ノ介さんは何度も何度も撫でてくれた。


「・・・何でやろな」


 涙が止まらない私の耳に、ぽつりと彼の呟きが聞こえる。


「泣かしてるんは俺やのに、静が泣いてくれることが嬉しくてたまらんのや」


 それだけ俺のこと、好きやゆうことやろ? と、そっと囁かれて、さらに私の涙があふれる。
 ただうなずくことしかできなかった。


 ひたすらに彼の胸で泣きくれて、どれくらいそうしていたか分からない。
 ようやく気持ちが落ち着いた私はゆっくりと顔を上げた。


「落ち着いたか?」


 鼻をぐずぐずさせながらこくりと首を縦に振ると、蔵ノ介さんはにっこり笑った。


「自分、鼻、真っ赤やで」

「えっ、やだ・・・!」

「やなことあらへん。めっちゃ可愛いな」


 そういったかと思うと、蔵ノ介さんは少し身をかがめて、私の額にキスをした。


「っ! 蔵ノ介さん!」

「ははっ、驚いたか?」

「お・・・驚きますよ!」


 私は無意識のうちに額を手で押さえていた。


「あー、これでも気ぃ遣うたつもりなんやで。一応新幹線の中やし」

「えっ、あっ・・・!」


 そういえばそうだ。
 デッキの中とはいえ、れっきとした公共の場だ。
 そんな中、私は蔵ノ介さんに抱きついて号泣していたことになる。


「うううっ・・・は、恥ずかしすぎる・・・」

「そうか? 俺は全然やけどな」


 穴があったら入りたいほどの羞恥を感じている私とは対照的に、蔵ノ介さんは今日一番のご機嫌だ。
 彼が笑っていてくれるのは嬉しいけれど、でも今は恥ずかしさのほうが先行していた。


「大阪帰る前に自分の気持ち確かめられて良かったわ。俺の片想いじゃなかったってことやからな。これで安心して帰れるわ」

「・・・はい」


 別れはつらいけれど、思い切り泣いたらずいぶんと気持ちがすっきりとした。
 今なら心からの笑顔で、蔵ノ介さんを見送れる。


「全国大会、頑張ってください。私、絶対応援に行きますから」

「自分の応援があれば、百人力や。また会う日まで、待っとってくれるか?」

「はい」


 私が笑顔でうなずくと、蔵ノ介さんもほっとしたようだ。


「約束や」

「はい、約束です」


 次の駅で私は降りて、何度もすまなさそうに謝る蔵ノ介さんを見送った。
 遠ざかる新幹線に寂しさがなかったと言えばウソだ。


 でも、今は笑っていられている。
 それは大きな収穫のように思えた。


 また会う日まで。
 それを合言葉に、私は再び歩き始めた。










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