真夜中の秘密




「千里さん、早くしないと!」

「ああ、急ぐばい」


 学園祭の行われる会場内を、私と千里さんは全速力で走っていた。
 薄暗くなっている会場内には、私たち以外はいない。


 それはそうだ。
 時刻はもうすぐ十時。
 跡部委員長にお願いして延ばしてもらった下校時間間近なのだ。


 原因は千里さんの腕の中にいる子猫だ。


「その陰、もう一匹子猫が見えたばい」


 お化け屋敷のセットを壊してしまう野良猫たちを、テニス部全員総出で捕獲するべく、特別に時間を延長して会場内に残っていた時のこと。
 四苦八苦しつつも全ての野良猫を捕まえたとほっとして、帰ろうとみんなで出入り口まで来たときに、千里さんがそんなことを言いだしたのだ。


「まだいたのか!? そいつは捕まえねえと」


 今すぐにでも飛び出していこうとした神尾君を、伊武君がぼそりと止める。


「・・・でも、もうすぐ入口の門が閉まる・・・」

「広瀬、作業時間の再延長はできないか?」


 橘先輩の言葉に、私は首を振る。


「すみません。跡部委員長はもう帰られていて、携帯から連絡しても、多分閉門には間に合わないんじゃないかと」

「ばってん、このままほっといたら、あの猫が何かすっかもしれないとよ。ほっとけんばい」


 千里さんの決断は早かった。


「俺が戻るばい。みんなで作業時間ば破ったら、さすがにおおごとになるけん、他のみんなは急いで外へ」

「だが、千歳。もし閉じ込められたら」

「だったら、私も千里さんと一緒に行きます」


 迷っている時間はない。
 時間は刻一刻と迫っていた。


「私なら、いざとなったら跡部委員長に連絡がつきます。それに、千里さんの言う通り、みんなで延長時間を破ったら問題になって、最悪の場合学園祭の参加自体を取り消されるかもしれません」

「・・・それじゃ、俺たちのしてきたことが無駄になる・・・」

「ああ。だな」


 最悪の事態はどうしても避けたい。
 みんなが頑張ってきたのを、間近で見てきたから。
 決断を委ねるように、みんなの視線が橘先輩に注がれた。


「どうしますか、橘さん」

「やむを得んな。千歳と広瀬に任せよう」

「分かりました」

「じゃあ、行くばい」


 千歳さんが踵を返して走り出したので、私も慌ててその後に続いた。


「頼むぞ!」


 みんなの声に振り返って軽く会釈してから、私は前を行く千歳さんに向かって声を張り上げた。


「猫はどの辺に行ったんでしょうか」

「広場のほうへ走っていくのが見えたけん、広場へ急ぐばい」

「はい!」


 千歳さんの言葉通り、広場に行くと、白い毛並みの子猫がちょこんと座っていた。
 先ほどはずいぶんと苦戦した猫の捕獲だったが、千歳さんがそっと近寄ると、抵抗することもなく子猫は大きな手に捕まった。


 ――――そして、今の状態に至る。
 猫が簡単に捕獲できたおかげで、ギリギリ閉門時間に間に合いそうだ。
 ほっと、息をついたのがいけなかった。


「きゃっ!」


 不意に足がもつれて、走っていたことも手伝って、思い切り転んでしまった。


「静! 大丈夫か!?」


 慌てて千里さんが手を差し伸べてくれる。


「だ、大丈夫です」

「大丈夫なわけなか! 膝ばすりむいとる」


 小学生並みに転んだので、とっさについた手のひらや、地面に打った膝から血が滲みだしている。


「大丈夫です。そんなことより、早く出ないと・・・」

「そんなこと、関係なか!」


 千里さんは子猫を片手に、もう片方の手で私を抱えあげた。


「きゃあっ!? 千里さん!」


 驚く私にはお構いなしに、千里さんは会場内に戻り始める。


「駄目です! このまま戻ったら、閉門時間に間に合いません」

「そぎゃんこつより、お前さんの手当のほうが重要たい」


 千里さんの口調には有無を言わさぬ強さがあった。
 時計の時間は、すでに十時を指している。
 でも、千里さんは気にせず、薄暗い廊下を抜けて、医務室へと私を連れてきた。


「少し染みるけん、我慢すっとよ」

「あ・・・」


 千里さんは私の手をとると、医務室の水道で砂を洗い落としてくれた。
 その間子猫は、近くにあった籠の中に大人しく座っていた。


「膝の砂も落とさんといけん。よっと」


「えっ、きゃっ!」


 いきなり抱えあげられて、水道の縁に座らされる。
 少し広めの洗い口とはいえ、あまりお行儀の良い行為ではないが、そんなことは千里さんには関係ないみたいだ。
 って。


「靴は自分で脱ぎます!」

 靴に手を掛けた千里さんに慌ててそう言うが、

「良いから、静は俺に捕まってじっとしてなっせ」


 やっぱり聞き入れてもらえなかった。
 靴も靴下も脱がせてもらって、膝の砂も洗い落とされた。
 確かに手をつくところがなくて、上体が安定しないので、言われる通り、私は千里さんの肩を借りた。


「よし、綺麗になったばい。あとは消毒、と・・・」

「あ・・・あの、自分でもできますから」

「何ば言いよっと。けが人は大人しくしとればよかたい」


 千里さんは再び私を抱えあげ、医務室のベッドの縁に座らせる。


「ええと、消毒と絆創膏は・・・」


 色々と棚をあさって手当の道具を探す千里さんを、私は申し訳ない気持ちで見つめていた。


「千里さん。ごめんなさい。私が転んだばっかりに、閉門時間に間に合わなくて・・・」

「いっちょん気にしてなか。何となく、予測してたけん」


 千里さんは私の手のひらと膝に消毒液を塗りながら、笑って続ける。


「俺は朝まで閉じ込められても別に構わん。さしおり、寝るところもあるけんね、明日の朝まで出られんちゃよかよ」

「寝るところって・・・」


 はたと思考が止まった。
 今自分の座っているところがどこなのか、思い至って。
 硬直した私に、千里さんはとどめのように言った。


「一緒に寝るたい、静?」

「!?」


 私の顔が、一気に上気する。


「な、な、何言ってんですか! だ、ダメですダメです!」

「ハハ。そぎゃん慌てなくてもよか。冗談ばい」


 慌てる私に対して、千里さんはいつもと変わらぬ大人びた態度だ。
 からかわれたと気づいて、さらに顔に熱が集まっていくのが自分でも分かった。
 千里さんにとっては冗談でも、私にとっては冗談ではすまされない。
 ちょっと、本当にちょっとだけ、本気かと思ってしまった。


「よっと、これで完了たい。さて、出るかね」

「え、出るって・・・」


 門はもう閉まっているはずだ。
 時計は間違いなく十時を過ぎている。
 だが、千里さんは慌てた風もない。


「仕方なか。お前さんの怪我もあるけんね。静にこの会場の秘密ば教えてやるばい」

「秘密・・・?」


 この会場は、外からの侵入者を防ぐために他の入口はなく、あちこちに監視カメラがついていると聞いている。
 もしその警備システムに引っ掛かれば、容赦なく警備会社に連絡がいって、それこそ大問題になってしまう。
 不安な気持ちが表情に表れていたのか、千里さんが私の頭にぽんと手を置いた。


「心配なかよ。どこにでも、抜け道はあるばい」

「え? 抜け道?」

「ああ、ぶらついとるとき見つけたとよ」


 千里さんは籠の中に入れておいた猫を私に寄こした。


「さ、こいつば持ちなっせ」

「え? は、はい」

「よっと」


 千里さんは、猫を持った私ごと、軽々と抱きあげた。


「千里さん! だ、大丈夫ですから! 一人で歩けます」


 いくらなんでも大げさだ。
 前にもこんなことがあったと思いながら、地面に降りようとしたが、やはり今度も降ろしてもらえなかった。


「静は我慢しすぎたい。今も怪我ば痛かはずやけん、そいば口に出さん。いつもそうたい」

「・・・千里さん?」


 何故か少し千里さんの口調に苛立ちを感じて、私はそっと顔をのぞき見た。


「たまには甘えてよかよ。俺には、本当のこつば話してほしか」


 苛立ちを感じたのが勘違いだったように、千里さんは優しい眼差しで私を見下ろしていた。


「っ!」


 思わず目を背けてしまう。
 眩しすぎて見ていられなかったから。
 それに、そんなことを思っていてくれたなんて、素直に嬉しかった。


「分かったと? 静」

「はい」


 顔は上げられなかったが、小さくうなずくと、千里さんは納得したようだ。


「約束たい。・・・破りよったら容赦しないけん、覚悟しとくたい」


 ・・・口調は変わらないのに、何か妙に迫力があるような気がするのは、私の思い過ごしだろうか。
 ともあれ、千里さんが私のことを心配してくれているのは良く分かった。


 だから、お言葉に甘えて、ほんのちょっとだけ、千里さんに身を寄せてみた。
 気がつかないと思ったのだけれど、


「!」


 きゅっと少し強く千里さんが抱き返してくれたのでびっくりした。


「・・・・・・」


 それ以降は言葉が見つからなくて、私たちは静かな夜道をゆったりと進んでいった。


 その後、千里さんの見つけた抜け道――――という名の、抜け穴だったのだけれど――――を抜けて、無事に何事もなく会場内から抜けることができた。


「多分、ここから野良猫が入ってきとーと。あとでふさぎに来ようと思うとったばい」

「こんな穴があったなんて、知りませんでした」


 まさか垣根に穴があいているとは思わなかった。
 しかも偶然そこは、監視カメラの死角になっているらしかった。


 子猫はその場で放してやり、戻らないよう穴をふさいで、ようやく今日一日が終わったのだ。


「ふう」


 駅まで千里さんに送ってもらい(外へ出てからは、さすがに降ろしてもらった)、家に帰った時にはくたくたになっていた。


 だが、転んだ時に負った傷は何故か不思議な熱を持っていて。
 穏やかに私の心を満たしてくれていた。










back