名前を呼んで



「おい、広瀬」


 夏休みの末、夕方とはいえまだまだ暑い中、出し物であるお化け屋敷の備品をチェックしていた時、橘先輩が声を掛けてきた。


「はい。何ですか?」

「あ、いや、別に大したことじゃない。千歳のことだ」

「千里さんの?」


 何かあったのだろうか。
 まさか、以前怪我をしたという右目のことだろうか。
 悪い想像をして表情を強ばらせた私に対して、橘先輩は、


「そうじゃない」


 私の不安を見透かして、それを吹き飛ばすように首を振った。


「本当に大したことじゃないんだが、お前たち、いつの間にそんなに仲良くなったんだ?」

「えっ、千里さんと私がですか?」

「ああ。あの千歳が女子と一緒にいるのが珍しくてな。いつの間にか名前呼びになったって、神尾たちも騒いでいた」

「あ、そ、それは…」


 むやみに慌てた私は、言い訳するように早口になった。


「九州時代に、私と同じ苗字の先輩がいたそうで。それで、苗字じゃなくて、名前のほうが良いって…」

「千歳が言ったのか?」

「ええ、そうです。それで私も名前呼びに…」

「ふむ。それは妙だな」


 橘先輩は腕を組んで首を傾げた。


「九州時代といえば俺も一緒だったが、そんな先輩は…」

「桔平」


 橘先輩の言葉に、タイミングよく別の声が重なった。
 それが話題の人であったので、私はどきりと胸を高鳴らせた。


「後輩たちが呼んどったばい。早く行ってやんね」

「え? あ、ああ、そうか。悪いな、広瀬。またな」


 やってきた千里さんの言葉に、橘先輩は慌ただしく他のテニス部員のみんなのところへ行ってしまった。
 凄く気になることを言い掛けていたような気がするんだけれど。


「話の途中、悪かったばいね」

「あ、いいえ」


 いつもと変わらぬ千里さんの態度。
 そういえば、今の話を聞いていたんだろうか?
 話題に出ていた人物がいきなり登場したので、何となく、悪いことを話していたわけではないのに、気まずさがある。
 でも、そんな私に気にした風もなく、千里さんは私の持っていた備品リストを指差した。


「何か手伝えることはあると? 静一人じゃ大変ばい」


 ――――静。


 改めて千里さんが私の名前を呼ぶことに、意識が及ぶ。
 考えてみたら、男の人に名前で呼ばれるのは、初めてかも知れない。
 男の人の名前を呼ぶことも、初めてかも。


「静?」


 もう一度、千里さんが私の名前を呼んだ瞬間。


「!」


 無性に恥ずかしくなった。
 顔に熱が集まる。


「静、どこか具合でも悪か」

「いいえ、何でもないです!」


 心配して声を掛けてくれた千里さんに背を向けて、深呼吸をした。


「無理しとらんね?」

「はい。大丈夫です」


 本当は、あまり大丈夫ではないけれど。

 胸はまだドキドキいっているけれど、それが不快ではないので不思議だ。

 千里さんといるといつもそう。

 ふと彼の名前を呼んでみたくなって、心の中でそっと呟く。


 ――――千里さん。


 すると、


「ん? 何ね?」


 声には出していないはずだったのに、千里さんから返事があったので、私はびっくりして目を見開いた。


「あっ、私、声に・・・?」

「ああ、聞こえたばい。俺に用があると?」

「い、いいえ。呼んでみただけです・・・」


 何ね、それ、と千里さんは流してくれたが、私はいよいよ彼のほうを見られなくなってしまった。
 心の中の声が、口に出ていただなんて。
 気をつけねばと思っている私は、背後で笑いをこらえる千里さんには気付かなかった。









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