眠れぬ夜




「お前なあ・・・」


 心底呆れ果てた悟空のため息が、容赦なく私に降りかかる。いつもならその人を小馬鹿にしたような態度が悔しくて、反論の一つや二つも試みるのだが。


「・・・・・・」


 今回ばかりはそんな気分にはなれなかった。何故なら、悟空のため息の原因は完全に私の行いによるもので、それは彼に申し訳ないと私自身心底認めるところだったからだ。


 窓からさんさんと降り注ぐ朝日はどこまでも眩しくて、この日一日が穏やかに始まりを迎えたことを教えてくれている。しかし、私にとってはこの朝の訪れは決して歓迎できなかった。


「確かにお前は毎日子どもたちの世話で忙しい。年をとった和尚に変わり、最近では子どもの面倒は一切お前が見ていたからな。それに加えて掃除洗濯近所付き合いその他、お前の体は休まるところがない。それに関しては、ねぎらいの気持ちがないわけでもねえ」

「・・・・・・」


 それは悟空がもう少し手伝ってくれれば、と言いかけたが、それは今ここで言ってはいけない気がして大人しく閉口する。


「だが、だ」


 すぐ近くで私を抱きしめている悟空は、私が言葉を返さないのを確認して、さらに言葉を重ねる。


「この状況での爆睡はどうよ」

「・・・・・・」


 うううっ、何も言えない・・・。
 ここは故郷の寺院ではない。薬草の仕入れにやってきている都の宿屋、その一室だった。昨日久々に悟浄との再会を果たしたのだが、懐かしさのあまりつい話し込んでしまい、私たちは悟浄に手配してもらった都の宿屋で一泊することになったのだ。


「宿に来てみれば部屋はひとつしか取ってねえって言うし、あいつにしちゃ最高の仕事をしたんだ」


 それなのに。
 再び悟空がため息をつく。


「部屋に着いて、寝台に横になると同時に爆睡しやがって」

「それは・・・」


 そうなのだ。あの色恋沙汰に鈍い悟浄が手配したのは、都で一番と評判の宿の一部屋だけだった。さすがにその意味が分からないほど、私も鈍感ではない。もちろん悟空については言うまでもないだろう。
 どこか緊張した様子で部屋に入った私たち。珍しく悟空がお茶を淹れてくれるというから、私は言われた通り寝台に腰をかけて待っていた・・・はずだった。


 が、気がつくと、すでに夜は明けていて、私は悟空に抱かれながら寝台に寝ていた。


「ったく、俺ですら一睡もできなかったてのに・・・」

「え?」

「・・・何でもねえ。そんなこと、どうでもいいんだ」


 余計なことを言ったとばかりについと顔をそむける悟空。どこか顔が赤い気がするのだが、まじまじと見ようとした私の顔を、悟空は大きな手で挟んだ。


「いいか、一度はっきりしとかねえといけねえ」


 急に声のトーンが落ち、まっすぐに見つめられる。どきりと胸が高鳴って声を詰まらせていると、息のかかる距離まで彼の顔が迫った。


「今度は問答無用で襲うからな。さすがに俺も、もう手を出さねえ自信はねえな」

「分かりました」


 そうなることを嫌がっているわけではないのだ。素直にうなずくと、何故か悟空はにやりと口元を歪めた。


「うっし。許しが出たことだし」

「へ?」

「よっせ、と」


 大きな体がのっそりと身を起こす。何をするつもりかと見守っているうちに。


「あれ・・・?」


 何かこの構図、おかしくないだろうか。
 悟空が私の目の前にいる――――私に覆いかぶさるように。


「っ!? ま、待ってください!」


 まさかとは思うのだが、そうである確率は限りなく高い。
 さっと顔から血の気が引いて行くのが、自分でも分かった。


「悟空! あ、あの・・・!」

「んー」


 気がつくと両手は悟空の手に掴まれていて。
 さらに彼の頭が首元にうずめられた。


「お、お、落ち着いてください!」

「玄奘、抵抗するな。めんどくせぇ・・・」

「!!」


 言っていることはいつもと変わらぬ「面倒くさい」であるのに、耳元で囁かれるとこうも動悸が激しくなるのか。
 しかも悟空が呼吸するたびに彼の吐息が首筋にかかって・・・こう、くすぐったいというかなんというか・・・。


「はっ!」


 いけない。
 流されるところだった。


 今は朝。
 人々がこれから起きだして、新たな一日を始めようとしているのだ。これからその・・・そんなことは、そんな不埒なことはできない。
 首を振って強く気持ちを持つ。


「悟空、良いですか。あなたは確かにぐうたらですけれど、きちんと時と場合と状況をわきまえられる人だと思っています。ですから、この場は引いてください」

「断る。良いから黙ってろって・・・」


 全身にかかる悟空の体重。それは確かに不快なものではなく、むしろ心地良いものだ。
 あああ。もう、私ときたら・・・。
 そんな場合ではないというのに、つい近くにある悟空の存在を喜ばしく思ってしまう。
 結局私はどうしようもなく悟空に甘いのかもしれない。


「・・・・・・?」


 どこか吹っ切れたように気持ちが軽くなったとき、私はふと気がついた。


「悟空?」


 おかしい。悟空は私の身動きを封じたまま、それきり動かなくなったのだ。恐る恐る声をかけてみても返事がない。


「・・・・・・」


 既視感を覚えた。以前にもこんなことがなかっただろうか。確かあのときは・・・。


「・・・もしかして、とは思うのですが。悟空、寝ているのですか?」


 私は身じろぎして悟空の顔を見る。目の前にいる彼は。


「すう・・・」


 間違いなく、寝入っていた。


「悟空、あなた、さっき自分で言ったことを忘れたんですか」


 二人きりになったにもかかわらずお構いなしに爆睡した私に対して、あり得ないとばかりに盛大なため息をついていた悟空の姿は、夢の続きではなかったはずなのだが。


「そういえば、一睡もできなかったと言っていましたね」


 私が寝入ってしまった時の悟空は、どういう心境だったのだろう。
 今私が感じているような、そこはかとない疎外感に見舞われたのだとしたら、嫌みの一つや二つ、言いたくなるのも分かる気がした。


「ぐうたらのくせに、徹夜なんてするからですよ」

「うるせぇ、玄奘・・・分かってんだよ・・・」

「!」


 余りにも的を射た返事があったので、悟空はタヌキ寝入りをしていたのかとも思ったが、どうやらただの寝言であったらしい。
 相変わらず健やかな寝息が続けて聞こえた。


「びっくりしました・・・」


 驚きで速まっていた鼓動を鎮めながら、私はひとつため息をついた。
 体はこれ以上動かせないので、せめてもと思い、顔を窓の先へと向ける。


 外は朝餉の準備を始めたためか、どこからか煙が漂ってきていた。
 あたたかな料理の匂いが鼻孔をくすぐる。
 明けきった空は真っ青で、清浄な空気が部屋を満たしている。


「絶好のお洗濯日和なのですけれど」


 言ってみたところで、夢の住人と化している悟空が解放してくれるわけではないのだ。
 ため息をつきかけて・・・しかし、私はふと笑みを浮かべた。


「こういうのを『幸せ』と言うのでしょうか」


 自分のなすべきことをなし、最愛の人が隣にいる。
 彼は人間へと転生を果たしたから、彼を置いていくこともない。
 仲間たちもそれぞれの道を歩んでいる。天上界と地上界、冥界には明確な境界線が引かれ、不可侵条約が結ばれたと聞いた。
 天界の方々も元気でやっていることだろう。


 私の望んだことは叶えられた。
 そしてきっと、金蝉子の望みも、閻魔王の望みも。


「悟空は、あなたの望みを叶えられましたか?」


 閻魔王でも聖天大聖でもない、「悟空」としての望みを、彼はこの旅の中で叶えることはできただろうか。
 道中彼には様々なことを教わり、支えられるばかりだった。
 私の視野の狭さを何度思い知らされたことか。


「あなたには力を貸してもらうばかりでしたから、これからは私があなたの望みを叶えてあげたいと思っています。私にできることがあれば、何でも言って下さって構いませんから」


 気のせいだろうか。
 少しだけ、私を拘束する悟空の手の力が強まったと思ったのだけれど。


「少し・・・やっぱり、私も日頃の疲れが溜まっていたようです・・・」
 悟空の眠気に充てられたのか、再び瞼が重くなってきた。
 貫徹した彼のことだから、そうそう易々と目が覚めるとも思えない。だとしたら、一緒に寝てしまっても怒られはしないだろう。


「おやすみなさい、悟空・・・」


 ――――玄奘。


 意識が遠くなっていく中、私は悟空の声を聞いた気がした。


 ――――ここで二度寝できるお前の神経は大いに疑うがな。


 呆れを含んでいるものの、そこには深い慈しみがあった。


 ――――俺の望みは、お前と共にあること。これからこの命が終わるまで、ずっと・・・。


 私はもうその時には夢を見ていたのだろう。


「分かりました。その望み、叶えさせてください」


 自分ではそう告げたつもりだったのだが、それが悟空に届いたかは分からない。
 そもそも、この悟空の言葉すら夢なのだというのに。


 ただ。
 額に温かい何かが触れ、少し間を置いてから同じものが唇にも触れた。
 悟空のぬくもりであるということは何故かはっきりと分かったので、触れられたところから静かに心が満たされる。


 ――――今度は覚悟しろよ、玄奘。


 何やら不穏な発言も聞こえたような気がするのだが、この際聞こえなかったことにする。
 夢の中の話なのだから。
 悟空の体温を感じながら、私は朝のまどろみに身を任せた。







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