お隣さん
「はあ、何か体が重いや」 朝日がとてもまぶしい。 トラちゃんが戻ってきて、いっそうバンド活動は忙しくなった。 昨日も帰ったのは深夜。 あまり寝ていないけど、ここのごみ出し、朝の八時半までにやらないと管理人さんに怒られるんだよね。 「ふう」 ふらふらしながら集積所にゴミ袋を出して帰ろうとすると。 「!?」 向かいから見覚えのありすぎる顔が近づいてきた。 シュウさんだ。 私は軽く会釈しただけで、慌ててエレベータに乗り込んだ。 あわわ。まずいまずい。 相変わらず私はシュウさんの隣の部屋に住んでいる。 私とノリが同一人物だと知られていないとはいえ、シュウさんに対して秘密があるので、法子の格好のときはとても会いづらい。 なるべく顔をあわせないようにしていたんだけど・・・。 「おい」 「!」 部屋の鍵を開けるのに手間取っていると、不幸なことにシュウさんに追いつかれてしまった。 「あ、あの・・・何か?」 「あんた、家の隣の住人だよな」 「え、ええ・・・」 気まずい。 いつもの癖でノリの口調にならないように気をつけながら、シュウさんと向き合う。 「ふうん。じゃ、あのベースの音はあんたか?」 「え?」 ベースの音、にぎくりとした。 だって間違いなく私の部屋から出た音だから。 トラちゃんに教わって少しずつ始めていたのだが、しまった。 お隣さんに聞こえていたんだ。 「あ、すみません。今度からは気をつけますので」 じゃ、と言ってドアを閉めようとしたのだが。 「待った」 シュウさんがそれを阻止する。 「な、何か?」 わー! 許して。勘弁して。心臓が止まりそうだよ。 私の顔があんまりおびえていたのか、シュウさんは一つ咳払いをした。 「いや、えーと、何だ。結構良い音出してたから」 「え?」 「俺が言いたかったのはそれだけ」 気が済んだのか、シュウさんはさっさと自分の部屋に帰っていった。 「・・・・・・」 何だろう、この気持ち。 私はシュウさんがドアの向こうに消えてからも、しばらくその場に立ち尽くしていた。 夕方になって、トラちゃんが食糧を買い込んで遊びに来た。 その折に私は朝のシュウさんとのやり取りを話した。 「へえ。それって法子のベースの音がシュウに認められたってことじゃない?」 「そうかな。私はシュウさんに、『ノリはお前だ!』っていつ宣言されるか、どきどきしたよ」 「あ、それは困る。ノリが法子だって分かったら、シュウなんか絶対襲ってくるもん。いい? シュウの三メートル以内には近づいちゃダメだよ。妊娠しちゃうから」 「トラちゃん、それ、シュウさんに怒られるよ」 晩御飯の片づけをしながら、トラちゃんの、いかにシュウさんがひどい男なのか伝説に、私はくすりと笑みを浮かべた。 バンドにトラちゃんが戻ってきてから、明らかにメンバーのなかの空気が晴れやかになった。 やっぱりトラちゃんは必要な人だって、凄く感じた。 と同時に、帰ってきてくれたことがとても嬉しかった。 「・・・というわけで、ぜーーーったい、シュウだけにはばらしちゃダメだからね!」 「ふふ。分かったよ」 何か必死になってくれることがくすぐったい。 「でも、やっぱちょっと嬉しかった、かな? ベースの音褒められて」 「まあ、ベースのことはね。そりゃあ、ボクが教えているんだもん」 「当然?」 「当然!」 私たちはお互いの顔を見て吹き出した。 「うーん、それにしても」 笑いあいながら、ふとトラちゃんはある疑問を口にした。 「ねえ、ベースの音が聞こえてくるってことは、ボクらの話し声も聞こえたりするのかな?」 「えっ」 不吉な響きだ。 そうだ。そういえば。そうかも。 「ど、どうしよう、き、聞こえてたりしたら・・・もしかして、シュウさんは何もかも知っていて黙っているのかも」 「あああ、そうかも。きっとボクたちから話し出すのを待っているんだよ。自分からは言わないで」 「あっ、じゃ、じゃあ、ベースの音の話も・・・」 「も、もしかしたら、そろそろ話せよっていう合図なんじゃ・・・」 妄想は止まらない。 私たちの間でみるみるうちに、大きな椅子に足を組んでふてぶてしく座りながら、手にはワイングラスと葉巻を持ち、サングラスをした全身黒ずくめの、まるでマフィアのボスのようなシュウさんの像が出来上がってしまった。 「ボク、シュウの家に行ってくるよ!」 突然トラちゃんが立ち上がった。 「と、トラちゃん、ダメ! 東京湾に沈められちゃうよ!」 「でも、このままじゃボクたち、全身に風穴開けられて魚のえさにされちゃうんだよ?」 冷静になって考えてみれば、どうかしていると分かりそうなものだけど、今の私たちに分かれというのはちょっと酷だった。 完全に、想像上の人物に恐れおののき、慌てふためいていた。 「ボクがシュウの部屋に行く。そしていっぱいしゃべってくるから、法子は声が聞こえるか確認して。聞こえなかったら、ボクたちの会話も聞こえてないってことでしょ?」 「そ、そっか。でも、シュウさんの家に乗り込むなんて・・・」 シュウさんの部屋はいたって普通の部屋である。 でもこのときの私の頭の中では、罠がたくさん仕掛けられている、悪の巣窟のように感じられた。 それに対してトラちゃんは、私を安心させるように親指を立てて見せる。 「大丈夫。すべては法子のためだから」 「トラちゃん!」 私たちはひしと抱き合った。 だいぶ取り返しがつかない事態になってきた。 「じゃあ、行ってくるよ」 「うん、気をつけて」 私は重々しくうなずく。 トラちゃんもうなずいてシュウさんの部屋に乗り込んでいった。 それからしばらく待ってみるが・・・・・・何の音も聞こえてこなかった。 ・・・・・・てゆーか、そうだよね。 ずっと隣に住んでいながら、シュウさんの存在に全然気がつかなかったんだから。 その間トラちゃんだって遊びに来ていただろうけど、声なんて聞こえてこなかったもんね。 あ、たまにギターの音は聞こえてきたかも。 でも歌声は聞こえなかったし。 そっかそっか。 「どうだった?」 まもなくトラちゃんが帰ってきた。 「うん、大丈夫。聞こえてこなかったよ」 「そっかー、良かった」 私たちは手を叩いて喜び合った。 傍から見れば、こんなくだらないことで・・・、と思うだろうが、私たちにとっては重要なことだったのだ。 「これで、安心してくっついても大丈夫だね!」 「わ!」 トラちゃんが思い切り抱きついてきた。 素直に好意を表してくれるのは嬉しい。 好きだって気持ちがあふれていて、好かれていることが良くわかるから。 ――――でも。 「も、もうちょっと、力の加減をしてもらえるとありがたいかなーなんて」 トラちゃんを受け止めきれず廊下に倒れこんだ私の訴えに、 「あはは。りょーかいりょーかい!」 トラちゃんはお日様みたいな明るい笑顔を見せた。 |