恋愛のススメ






「先輩、それ、絶対鬼崎先輩気にしてますよ」

 ずいと狐邑くんに身をのりだされ、私はちょっと気圧されて、思わず背筋を伸ばしてしまった。
 お昼休みの屋上。
 最近では鬼崎くんと二人のお昼が続いていたが、今日は件の彼は先生に呼び出されていていない。
 その代わり、凌さんと狐邑くん、鴉取くんと狗谷先輩、そして犬戒先輩まで集まっていた。
 

 その中で話題になったのは、やっぱりというか、私と鬼崎くんのことだった。
 普段の私たちの様子を好奇心たっぷりに聞き出されて、私は慌てふためくばかり。
 誰かと想いが通じ合うことなんて、今までなかったことだから、まだまだ慣れないことばかりなのだ。
 その中で、


「沙弥先輩、鬼崎先輩のこと何て呼んでいるんですか?」


 そんな些細な狐邑くんの疑問が始まりだった。


「え・・・? 変わらず、鬼崎くん、だけど」


「えええ!? そうなんですか!?」


 わざとらしいくらい大きな声で、狐邑くんは驚いて見せた。
 そして先ほどの発言に至る。


「沙弥先輩、恋人同士になったのにまだ『鬼崎くん』のままだったら、鬼崎先輩気にしますよ」


「え? そうかな? 別に何にも言っていなかったけど」


「そりゃ言いませんて。考えてもみてください。あの鬼崎先輩ですよ。あのプライドの高い鬼崎先輩です。言えるわけないじゃないですか、その他人行儀な呼び方はやめろ、なんて」


「狐邑のことも、一理あるかも知れんぞ」


 いつもの通り固形の栄養補助食品を口にしていた犬戒先輩が、唐突に口をはさんだ。
 ブラックコーヒーを飲みほした後、紙コップをくしゃりと潰し、隅にあったゴミ箱に放ってから、妙に難しい顔で腕組みをする。


「考えてもみろ。幼馴染の大蛇は名前呼びで、恋人関係にある鬼崎には名字呼びだ。気になると言えば気になるのではないか」


「あっ、じゃあ、俺も志郎先輩って呼んでいいんだぜ、姫!」


「おまえは黙ってろ。話がややこしくなる」


 ぎゃあぎゃあと騒ぎ出した狗谷先輩を犬戒先輩がなだめている間に、私は隣にいた鴉取くんに助けを求めた。


「鴉取くんは、どう思う?」


「え・・・? ええと、その・・・」


 明らかに困っている鴉取くんに助け船を出すように、凌さんが納得顔でうなずいた。


「確かに、俺はずっと沙弥のそばにいたから名前呼びだが、あいつ、結構独占欲強そうだから、意外と気にしているんじゃないか」


「うわあ、大蛇先輩に独占欲強いって言われたら、おしまいですよね」


「ん? 何か言ったか、狐邑」


「あ、いいえ、全然」


 みんなの意見を聞きながら、どうやら恋人同士になると、呼び方も変わるものなのだということは、おぼろげながらに分かってきた。
 経験がない以上、みんなの意見を参考にするしかない。


「刀真くん・・・?」


 ・・・言っていて、自分が恥ずかしくなってしまった。
 そういえば、鬼崎くんも、初めは私のことを「テメエ」としか呼んでくれなかった。
 それが戦いを重ねていくにつれ、「沙弥」と名前で呼んでくれるまでになったのだ。
 そうか。
 鬼崎くんも名前呼びに変えていたんだ。


「わかったわ」


「え?」


 すでに話の中心は私にはなかった。
 いつの間にかみんなは好き勝手な方向に話を進めている。
 その中で唯一私のつぶやきに気が付いてくれた鴉取くんは、何やら決心した様子の私を見て、心底困った顔をした。


「え・・・えっと・・・念のため訊きますけど、何が?」


「名前呼びよ。そうだったのね、恋人同士になると、名前呼びにしなくてはならなかったのね」


「え? い、いえ、そういうわけでは・・・」


 この中にいて、鴉取くんが一番正しい助言をしてくれていたとも知らず、私は小さく拳を握りしめた。


「よし、さっそく鬼崎くんを名前呼びしてみるわ。ありがとう!」


「あっ・・・」


 何か言いたげな鴉取くんに手を振って、階段を駆け降りる。
 こうして私の昼休みは終わりを告げたのだ。








 ・・・とは言ったものの。
 はあ、と何度ついたかわからないため息。
 息を吸い込むたびに言おう言おうと思うのだ。


「刀真くん」


 と、その一言を。
 だが、その一言が出てこない。
 昼休みに入れた気合いはどこへやら。
 こうして学校から帰ってきてしまってからも、ついに名前呼びすることはできていなかった。


 独り暮らしの私を気遣って、そして自身も独り暮らしをしているため、鬼崎くんは毎日、私の夕食の買い物に付き合ってくれている。
 その後、送りついでに夕食を食べて帰るのだ。
 今日もその日課のため、鬼崎くんはリビングでくつろいでいた。
 私はキッチンで夕食の準備をしながら、いつ名前呼びしようかということを考え続けている。


「・・・・・・」


 正直、ここまで難しいことだとは思わなかった。


「恋人同士になったんだし、名前で呼んでいい?」


 と、明るく切りだしてしまえばそれまでなのだが。
 それを簡単にできない自分の性格を、改めて情けないと思う。


 ――――ためしに、ちょっとだけ呼んでみようかな。


 練習でもしておかねば、一生無理なような気がしてきた。
 思い切って息を吸い込んで、その割にとても小さい声で告げる。


「刀真くん」


 ああ、ちゃんと声に出せた。
 ずっと心の中で呼び続けていた一言が、ようやく声に乗せられたことに、少なからずほっとする。
 後はこれを本人に告げるだけなのだけれど。
 それが簡単にできたら、こんなに思い悩んだりはしない。
 さて、どうしたものかとため息をつきかけた時だ。


「おい」


「!?」


 あり得ないほど近距離で、鬼崎くんの声がして、私は文字通り飛び上るほど驚いた。


「あっ!」


 振り返る間もなかった。
 いつの間に後ろにいたのだろう。
 鬼崎くんが後ろから私を抱きしめた。


「今、何つった」


 耳元で、何やら不穏な低音がささやかれた。
 それがあまりにも恐ろしくて、私は首を振る。


「な、何も言っていないよ」


「嘘つけ。お前、今何か言ったろ。聞き捨てならねえ一言だ」


「そ、それは・・・」


 小さい声だったはずなのに、どうやら鬼崎くんの耳に届いてしまったらしい。
 聞かせるつもりのなかった一言だったので、私の動揺は激しかった。


「ご、ごめんなさい。ええと、あの・・・」


「あー、うるせえな。ごちゃごちゃ言うな」


 びしりとそう言い切ると、鬼崎くんは何故か不自然な咳ばらいをした。


「細けぇことはどうでも良い。それより、さっきの」


「え?」


「え、じゃねえ。さっき言った一言、もう一回言ってみろ」


「ええっ!? で、でも・・・」


「いいから、早くしろ!」


「は、はいっ」


 何だかとんでもないことになってきたと思いながら、最大の勇気をもって、もう一度私は鬼崎くんの名前をつぶやいた。


「刀真くん」


「・・・・・・」


「あ、あの、鬼崎くん?」


「なっ、てめ、そこは違えだろ」


 苛々したような鬼崎くんの様子に、私は面食らった。


 ――――あ。


 シンクに、後ろの鬼崎くんの顔が映っている。
 それに気がついたとき、私はようやく冷静さを取り戻せた。


 ――――鬼崎くん、顔が赤い・・・?


 気のせいじゃない。
 視線はそっぽを向いているが、それが照れた時の仕草だというのは、私も何度か見たことがある。


「刀真くん・・・?」


「な、なんだよ」


「あ・・・ううん、何でもない」


「何だ、そりゃ」


 やっぱり、と言ってもいいのだろうか。
 多分・・・間違っていないとは思うんだけど・・・鬼崎くん、じゃなかった、刀真くんは、名前で呼んでも良いってこと、なのかな。


「ちっ、何ニヤニヤしてやがる」


「に、ニヤニヤなんてしていないわ。そもそも私の顔、見えてないでしょ」


「見えてるっつーの。シンクに映ってるじゃねぇか」


「そんなこと言ったら、お・・・刀真くんの顔だって分かるんだよ。またそんなしかめっ面して・・・」


「あー、もう、うるせぇな」


 刀真くんは私の反論を許さず、無理やり私を振り返らせた。


「!」


 真剣な刀真くんの目。
 睨みつけるような勢いなのに、ちっとも怖くはない。
 いや、それはちょっと正確ではない。
 野生の獣を思わせる彼の視線は、まっすぐ私に向けられている。
 彼の捕食する相手は私。
 それが怖くないと言えば、ちょっとだけ・・・。


「沙弥」


「何? 刀真くん」


 不思議。
 さっきまで恥ずかしくて口にできなかった一言が、こんなにすんなり出てくるなんて。
 だから、彼の顔が近づいてきても、いつもより落ち着いていることができた。
 あっという間に唇を奪われたが、それもうれしいと感じられる余裕もあった。


「・・・良いか、これからは名前で呼べよ」


「うん」


「名字で呼ばれても、返事しねえぞ」


「わかったよ」


「だいたい、おせえんだよ、まったく・・・」


「? 今、何て言ったの?」


「何でもねえ」


 つい、と再びそっぽを向いてしまう刀真くん。
 お昼からずっと悩み続けていた自分が、馬鹿みたいに思えてきた。
 初めから、こうすれば良かったんだ。
 ・・・って、まだ、それがうまくできないんだけれど。
 少しずつでも、距離が縮まっていくのが嬉しい。


「可愛い顔して固まってんじゃねえよ」


「えっ!?」


「馬鹿。今のは聞き逃すとこだろ」


 バツが悪そうにしながらも、ニヤリを笑って見せる刀真くん。
 つられて私も笑ってしまう。
 周りからみれば、すっごくゆっくりかもしれないけれど。
 この人ならこの先ずっと、一緒に歩いて行ける。
 そう実感できることが、本当に本当に嬉しかった。





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