理想郷


「レイン? レイン?」

 アンジェリークの呼び声が、あたりに響く。
 乳白色の世界では常に霧が辺りを覆っていて、すぐ近くにいないと相手の存在が感じられないのだ。

「レイン? どこ?」
 心細い思いでアンジェリークが名前を呼び続けていると、その名の主が彼女を後ろから抱きしめた。

「オレはここにいるよ、アンジェ」

 視界が閉ざされている分、こうして抱きしめてもらうととても安心できた。
 アンジェリークはレインの手に自分のそれを重ねた。

「良かった。どこかへ行ってしまったかもしれないと思って・・・」

 ほっと安堵のため息をつく彼女に、レインはふっと吹き出す。吐息がアンジェリークの耳朶にかかって、耳を赤く染めた。

「お前の側以外、オレがどこへ行くというんだ。どこにも行かないさ。ずっと、永遠にオレはお前の側にいる」

「嬉しい・・・私も、レインとずっと一緒にいたいわ」

「じゃあ、ずっと一緒にいればいい」

 レインの腕に力がこもる。

「ここはオレとお前しかいない、オレたちだけの世界だ。誰も邪魔する奴はいない」

「ええ、そうね・・・」

 女王の卵の命と引き換えに時空転移を行なって、アルカディアは救われた。
 死を覚悟したアンジェリークと、彼女と運命を共にすると決めたレインは、気がついたらこの世界にいた。

 死ぬ、とはこういうことなのだろうか。
 白い霧に包まれた以外何もない空間ではあったが、しかし、二人はそれだけで十分だった。
 二人だけしかいないこの世界で、永遠を二人きりで過ごすことができるのだから。

「レイン、好きよ。大好き」

「オレだって、お前が好きだ。お前がいれば他に何もいらない」

 オーブハンターとして陽だまり邸で一緒に生活していたときには、照れてあまり口にできなかった言葉を、挨拶するのと同じ気軽さで二人は口にする。
 そのくせその言葉はいつでも全部真剣で、だからこそ何度同じことを言われても互いの心を振るわせ続けた。

「レイン、手を貸して」

「ん? ああ」

 差し出された彼の手に、アンジェリークは自分の指を絡めた。

「こうしていれば、もう不安な気持ちになることはないわね」

「ああ。そうだな」

 レインも優しくいとおしそうに、アンジェリークの指をつながれているほうとは違う手で撫でる。

「・・・もう少し、つながれたくはないか?」

「え?」

 レインはアンジェリークの指を撫でた手で、彼女の桜色の唇に触れた。
 すっと、唇を指でなぞると、アンジェリークもレインの真意に気がつき・・・・・・そして、静かに目を閉じる。

「ああ・・・可愛いな。本当に、お前は」

 感慨深く呟いたレインの吐息が、アンジェリークの唇の上に降りかかった。

「アンジェ・・・」

 何か言いかけたアンジェリークの言葉を飲み込むように、レインは彼女の唇を己のそれで押し包んだ。
 相手の存在を確認するのに、確実、適当な方法で、二人はしばらく互いの熱を確かめ合う。

「不安は消えたか?」

「・・・いいえ、もうちょっと・・・」

「ああ・・・」

 短くやり取りが行われて、再び二人の影が重なる。

 どこまでも甘く、甘く。
 二人が望んだ、二人きりの世界が、そこにはあった。
 もしかしたらこれは夢、幻の類なのかもしれない。現実の世界のこととは思われない。

 ヨルゴが言っていた。
 アンジェリークの命と引き換えに、世界は救われると。
 だからアンジェリークはもう、この世の人ではないのだろうし、そんな彼女と一緒にいたいと願ったレインもまた、鬼籍に名を連ねていると思われる。
 死ぬとはどういうことなのか。
 アンジェリークにもレインにも、それはいまだに分からなかった。
 しかし。

「アンジェ、好きだぜ・・・愛している」

「私も愛しているわ。とてもとても、レインが好き」

 死してなお失われることのなかった相手への思いがあふれ出し、それをとどめるすべを知らない二人は、世界の犠牲になったという悲劇的な結末を、砂糖菓子よりも甘いものへと変えていった。

「オレとお前、永遠に二人きりだ」

「嬉しい・・・ずっと一緒なのね」

 ひしと抱き合う二人には、もう互いのことしか見えていなかった。
 レインの目はアンジェリークしか映さず、また、アンジェリークの目も、レインしか映さない。

 本当に二人のほかには何もない世界。
 こここそまさに、二人にとっての理想郷であった。

「レイン」

「アンジェ」

 名前を呼び合ってさえ幸せな気持ちになる。
 二人はどちらからともなく相手の体に腕を伸ばすと、そのまま相手との距離を縮めた。
 レインがなにやらアンジェリークの耳元で何かをささやき、彼女がそれに極上の微笑で応じる。

 乳白色の世界では、穏やかな時間が流れ続ける。
 二人のために、二人以外は何も、誰も受け付けない。

 その世界がどこにあるのか、どんな世界なのか、何のための世界なのか、二人を含めて、答えを知るものは誰もいなかった。







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