新刊「Honey」 サンプル 





「え?」

 誰かに呼ばれた気がした。
 ニクス厳選のアッサムティーを口にしていたアンジェリークは、はっと顔を上げた。

「どうしました、マドモアゼル?」

「あ、いえ。今、声が聞こえたような気がしたので」

「声? さあ、私には聞こえませんでしたが」

 不思議そうな顔をしたニクスに、答えたのはアンジェリークではなくジェイドだった。

「あ、レインが来たみたいだよ。もう一人は・・・エレンフリートかな?」

 その言葉が終るか終らないか、ちょうどそのタイミングで、呼び鈴も鳴らさずレインが姿を現した。
 ジェイドの言葉通り、後ろにはエレンフリートもいた。

「悪い。遅れたな」

「レイン!」

 ずっと待っていたからだろうか。
 彼を呼ぶ声が思わず大きくなった。
 アンジェリークの声に、レインは端正な顔をくしゃりと笑顔に変えた。

「久しぶりだな、アンジェリーク。元気そうだな」

「ええ。レインは?」

「オレも、問題ないぜ」

 力強くうなずくと、アンジェリークはほっと息をついた。

「エレンフリートも、来てくれてうれしいよ」

「わ、私は別に、来たくて来たわけではなく、レイン博士が無理矢理・・・」

「ほら、俺の作ったスイーツを食べていって」

 エレンフリートはジェイドが付きつけたミルフィーユをしばし眺めていたが、さっくり焼きあがったバイ生地と、とろけそうな生クリームの誘惑には勝てなかったようだ。

「仕方ありませんね。いただきます」

「ああ。どうぞ」

 勧められたソファに腰をかけ、お皿を受け取った。

「それにしても、今夜は財団主催のパーティでしょう。理事がこのようなところでお茶をしていて良いのですか?」

「ああ。もう手配は済んでいるから、心配ない」

 アンジェリークの今日の仕事納めは、財団主催の女王降臨記念パーティだ。

 聖地から女王を連れ出すことに成功した財団がなければ、今この地に女王はいなかった。
 財団の新しい理事であるレイン主催の、研究の成功と、女王への歓迎の意を表すこのパーティは、ファリアンを代表する有力な商人や、この地に別荘を持つ貴族が招待されている。
 その中で、あいさつをしなければならないのだ。

 しかも。
 アンジェリークは不安そうにレインを仰いだ。

「皆さんにダンスを見せるなんて、緊張するわ。うまく踊れるかしら・・・」

 あいさつだけではなく、アンジェリークは招待客の前でダンスを披露することになっている。
 あいさつだけならばまだ何とかなりそうなものなのだが、このダンスは厄介だ。
 失敗すれば多くの人に迷惑がかかる。
 緊張でいっぱいのアンジェリークに、レインは安心させるように不敵な笑みを浮かべた。

「大丈夫だ。オレがエスコートするんだから、お前は心配しなくても良い」

「そうですよ、マドモアゼル。いざとなれば全部レイン君のせいにしてしまえば良いのです」

「ニクス、お前・・・」

 レインに睨まれても、ニクスは澄ました顔を崩さない。
 何年経ってもこの構図は崩れないままだ。アンジェリークにはそれが嬉しかった。

「まあまあ。でも良いのかい? 俺までパーティに参加してしまって」

 パーティの招待状は、陽だまり邸の面々をはじめ、近しい知り合いにも送られていた。

「ああ、俺も思っていた。ファリアンの要人が集まるパーティに、個人的な知り合いである一般人を招いて良いのか?」

 ヒュウガはアンジェリークの護衛があるから、パーティへ同行するのは当然だ。
 ニクスも、名の知れた篤志家であるから、たとえ直接的にファリアンに関係がなくとも、招待されてもおかしくない。

 だが、ジェイドは違う。
 要人でもない、報道陣でもない、まったくの一般人なのだ。
 その彼が公的なイベントに出ても良いのか。
 そんな疑問は、あっさりレインにより一蹴された。

「大丈夫だ。と言うより、お前に頼みたいことがあるんだ」

「頼みたいこと? 何だい?」

 レインは、詳しく説明するから、と言ってジェイドをサルーンから連れ出す。
 ちょうどパウンドケーキが焼きあがったタイミングだったので、連れだってキッチンへと向かう。

「何かしら? お願いだったら、ここでもできると思うのだけれど・・・」

 小さく呟くアンジェリークに、ただ一人、エレンフリートだけが複雑そうな表情を浮かべていた。







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