新刊「初恋」 サンプル 





「なあ、アンジェ」


 レインは焦りとともにアンジェリークの背中を追っていた。

 今日の陽だまり邸は、いつもの穏やかな目覚めとは少し様相が違っていた。その原因を作っているのが、レインと、そして目の前を足早に進んでいくアンジェリークだった。
 アンジェリークはレインに声をかけられているというのに、廊下を進む歩調が一向に緩まない。


「アンジェ、まだこの間のことを怒っているのか?」


 この間のこと、というのはもちろん、カードゲームの敗退の代償に語らされたレインの初恋の話のことだ。
 あれから数日経ったが、その日からとたんにアンジェリークの反応がとたんに冷たくなった。パートナーとして選んでくれなくなったどころか、普段の生活でさえレインを避けるようになったのだ。これにはさすがにレインも焦った。


「アンジェ、そんなに嫌な思いをしたのか?」


「・・・・・・別に、何でもないわ」


「何でもないってお前・・・」


 何でもないはずがない。しかも、困り切っているレインに対し、頭痛の原因はアンジェリークだけではなかった。


「おやおや。今日もこの光景ですか?」


「あはは、レイン。まだアンジェリークに袖にされているのかい?」


「自業自得だな」


 陽だまり邸の面々も、ことごとくアンジェリークの肩を持つのだ。ニクスは面白そうに、ジェイドはちょっと気の毒そうに、ヒュウガは最もだと言わんばかりに。


「私、朝ごはんの準備をしなくちゃならないから」


「アンジェ」


 レインはもう一度名前を呼んだが、アンジェリークは振り返ることなくキッチンに入っていってしまった。
 これ以上追っても、まだどうやら話を聞いてもらえそうにない。
 レインはがっくりと肩を落とすと、諦めて自室へと戻り始めた。ため息が止まらない。この数日で、いったいどれだけのため息が量産されたことか。


「・・・・・・」


 最近ずっとこんな調子だ。ことあるごとにアンジェリークを追ってはいるものの、話を聞いてもらうどころではない。


 ――――やっぱり、怒っているんだよな。


 レインの初恋話に。
 きっかけはあれしかない。
 やっぱりするんじゃなかったと思ったところで、今更そんなことを言っても仕方がない。もう知られてしまったのだから、皆の記憶など消せるはずもないのだ。


 レインは遠い記憶に思いを馳せる。我ながら可愛げがない子ども時代だったと思う。大人に囲まれて過ごしたために、子どもらしい思い出も、普通の子どもよりは少ないだろう。
 その中にあって、あのフルールの村での一件は、まばゆいほどの輝きをもって、今もレインの心の中に大事に仕舞われている。
 あの時はそれと意識できなかったが、間違いなくあれが初恋だったのだろう。それも完全な一目惚れ。あの孤児になってしまった少女は、今でもちゃんと胸の中に・・・。


 その時、玄関の呼び鈴が鳴った。


「誰だ?」


 レインが出ていくと、そこには見知った顔があった。


「レインさん、良かった!」


「ナギ? どうしたんだ、こんな朝っぱらから」


 財団の職員であるナギが、どうしたことか。目を丸くしているレインに対し、明らかにナギの顔が安堵に満ちた。慌ててきたのが、額の汗と乱れた髪型からはっきりと分かる。
 何かあったということは一目瞭然だ。


「何があった?」


「それがレインさん、今困ったことになっているんです」


「何?」


 ナギの様子から、ただならぬ様子を感じ取っていたレインは、彼から告げられた事態に一瞬にして血の気が引いた。


「お願いです、一緒に来てください」


「分かった。急ごう」


 珍しくいつも冷静な彼の顔が、蒼白になっている。
 陽だまり邸を飛び出ようとしたレインたちに、


「おや? どうしました?」


 ニクスが気がついて声をかけた。ナギは軽く頭を下げたが、レインの友人である彼にいつもの穏やかさがないことに、ニクスも目を細めた。


「何かあったのですか?」


「ああ。財団がらみでな、ちょっと出てくる」


 詳しく説明している時間も惜しいのか、レインはそれだけ告げるとナギを促しながら屋敷を飛び出していった。律儀にもニクスに対して頭を下げてから、ナギもそのあとに続いていく。


「やれやれ、ご苦労様なことです」


 何事もなければ良いが、と思いつつ、ニクスは二人が出て行った扉の向こうを静かに見つめていた。









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