静かな夜に思う




 静かな夜更けに、私の紡ぐ機織の音だけが部屋に響いている。
 きい、ぱたん、という規則正しい音は、一人暮らしをしていた時は少し物悲しく聞こえることもあったのに、今は虫の音も届かぬ闇の帳の中でも、ちっとも悲しく思えない。


 それはきっと、今この生活が満ち足りているせいだろう。
 少しだけ手を止めて、私はちらりと背後に目を向けた。


「――――」


 静かだと思ったのは、機織に集中していたばかりではなかったようだ。
 様々な書物を開きっぱなしで机の上に並べ、書類と格闘していたはずの呂雄が、いつの間にか机に突っ伏していた。


 少し前に、暁との長い戦の果てに和議が結ばれ、ようやく昊には戦のない平和が戻ってきた。
 とはいえ、和議を結んだ相手は、散々好き放題攻め入られた暁である。
 表向きは和議を結んだことになっているが、まだ水面下では暁が昊を奪わんと刺客が暗躍しているというまことしやかな噂が流れていたりもする。


 ずっと戦をしてきた相手なのだから、簡単に信用することはできないのだろう。
 それは、たった数人に手ひどい敗走を味わった暁の国も同じようで、今はお互い腹の探り合いをしているというのが正しいみたい。


 でも、この和議はお互いにとって利益をもたらすものだ。
 次第に、少しずつではあっても、お互いの距離は縮まっていくだろう。


 昊の国の中枢部で、今現在皇帝の片腕としてあちこち走りまわっている呂雄は、私が想像している以上に忙しい。
 毎日必ずこの家に帰ってきてくれるが、代わりに腕いっぱいに書簡や竹簡を持ち込んでは、夜遅くまでにらめっこしていた。


 呂雄は武官だけれど、きちんと学問を修めて考試に合格している。
 それ故に、戦で人の足りなくなった宮廷では軍のこと以外にも仕事が回ってくるのだそうだ。


「あいつら、俺に仕事を押しつけて、家での自由時間を奪ってやるとか、ふざけたこと言いやがって」


 いつか、呂雄がそうぼそりと漏らしたことがある。
 あいつらとはもちろん、泰斗と劉瑯さんのことなんだろうけど、呂雄に仕事が回ってくるのは、それだけ信頼されているということだ。
 決して、私達の邪魔をするためじゃない・・・と思う。多分。


 私は立ち上がり、呂雄の隣までいくと、彼の肩を揺する。


「呂雄、こんなところで寝ていたら風邪をひいちゃうよ。寝るなら寝台で寝よう?」

「ん――――」


 寝ぼけた声を上げるが、それ以上反応はない。


「ねえ、呂雄ってば。明日も早いんでしょ? 今日はもうこれくらいにしようよ」

「あー・・・、ああ・・・」


 呂雄は生返事をしたが、絶対起きてない。
 よほど疲れているのか、なかなか目を覚ましてくれない。


「今度、呂雄の仕事を減らしてくれるよう、泰斗に直訴してみようかしら」


 それは簡単にかなうだろうが、それをネタに泰斗が呂雄をからかう図が容易に想像できてしまって。
 そんなことをしたら呂雄に怒られるかなあなんてぼんやり思う。


「ただでさえ、呂雄は照れ屋さんだから。きっと真っ赤になって怒るわね」


 自然に浮かんできた笑みを口元にたたえ、私は手を伸ばすと、呂雄の頭を撫でる。
 少し硬い髪の毛は、前を変わらない。
 でも、今こうして触れられることが何より尊い。


「!?」


 不意にちらりと脳裏に炎の記憶がかすめ、はっとした。
 と同時に、私は呂雄に抱きついていた。


「呂雄!」


 大丈夫。
 もう炎はない。
 呂雄は、死んだりしない。


「・・・良かった」


 それは分かっていても、未だに私はふとした瞬間に臆病になる。
 一度手を離してしまったことが、今まさに目の前で再現されるような不安に襲われるのだ。
 私は呂雄に縋りながら、置き去りにされた子どものように、不安な気持ちのままぽつりと呟く。


「どこにも行かないで。ずっと傍にいて」


 夜闇に溶けていく呟き。
 その瞬間、私の視界は反転した。


「きゃっ!?」


 世界がぐるりと回って。


「え・・・?」


 気付いたときには、私は呂雄の腕の中にいた。
 まざまざと感じる彼の体温に、急速に私の不安が氷解していく。


 あったかい・・・。


 ホッと息をついている私の耳に、優しい熱が降り注ぐ。


「・・・どこにも行かない。必ずお前のもとに戻ってくるよ。ずっと傍にいる。そう、約束しただろ」

「呂雄、起きたの?」

「ああ。お前の不安そうな声が聞こえたから」


 そう言って、呂雄は腕に力を込めて強く私を抱きしめる。
 ・・・ああ、本当に、もう。


「大丈夫だ。お前が心配することはない。俺はここにいる」


 その言葉がどれだけ私の心を救っているか。
 私は呂雄の胸に顔を伏せて、何度もうなずいた。


 どうしてなんだろう。
 悲しい結末を変えたくて、それさえ変えてしまえば、私は呂雄と無条件に幸せな生活が送れると思っていた。


 けれど、現実はそんなに簡単ではなくて。
 こうして呂雄の存在を確認しないと不安でいられなくなる。


 そんなとき呂雄は、黙って私を抱き寄せ、落ち着くまでずっと抱きしめていてくれた。


「ごめんね。私、皇后を辞めてから弱くなったんだね」


 今は懐かしきその名。
 目を閉じれば今でもはっきりと後宮の様子が頭に浮かぶ。


 今まではこんなことなかった。
 一人でもやって来られたのに。


「今は呂雄がいないと駄目なの」


 ぎゅっと強く呂雄の上着を掴むと、何故か頭上からため息が降ってきた。


「お前なあ。それは反則だろう」

「え?」


 顔を上げると、そこには真っ赤になった呂雄がいた。
 呂雄はキョトンとする私からとっさに視線を外す。


「お前、それは殺し文句だ。お前は俺の心臓を止める気か」

「な、何で? 私、何か変なこと言った?」


 本気で分からないでいると、むっとした呂雄にほっぺたをつねられた。


「い、いひゃい! 何すんの!」

「お前が不用意な発言をしたからだ。俺がショック死したら、間違いなくお前の責任だ」

「な、何で!?」


 勝手に犯人に仕立て上げないでほしい。
 私は抗議のために顔を上げたが、それよりも早く、呂雄が私の肩に額を載せた。


「呂雄・・・?」

「あー・・・その、何だ。お前が不安に思うんなら、いつだってこうして傍にいる。お前が安心するまで、傍にいるよ」

「本当?」

「ああ」


 呂雄の言葉は不思議だ。
 私の心の隅々まで行き渡る。
 そして、その瞬間から私のドキドキに変わる。


「じゃあ、今日も呂雄の腕枕で寝たいわ」


 私はいたって自然にその望みを口にしたのだけれど、思いの外呂雄が盛大に反応した。


「ぶっ、おまっ、それ、昨日だけの限定って言っただろう!?」

「えー。だって、呂雄は今、いつだって傍にいてくれるって言ったじゃない」

「えー、じゃない。だいたいな、お前は昨日俺がどれだけ我慢したと思っているか・・・あーあー、どうせ分かってないんだろうな」


 半ば自棄になりながら、呂雄は諦めたようにため息をついた。
 顔は真っ赤だ。


「・・・駄目?」

「・・・・・・あー、もう! 分かったよ。分かった。どうせ俺はお前に甘いんだ」


 こうして耳まで真っ赤にして照れてくれるところが、凄く可愛い。
 本人に言うと、いつでも怒られるけど。


 でも、目の前に呂雄がいる。
 一度離してしまった手が、私の頭を撫で、私の頬をなぞり、私を温かく包み込んでくれる。


 それだけでもう、何もいらない。
 今度こそ、この手は離さない。
 何があっても、絶対に。


「呂雄、愛してる」


 いつかの未来で、飽きるほど囁いてくれと言ったのは呂雄だったのに、未だにこの言葉には慣れぬと見えて、私がそう口にするたびに呂雄は思いっきり照れる。
 それでも、いつでも呂雄ははっきり言ってくれる。


「俺も、愛してるよ」


 お互いの思いが通じ合って、こうして目の前の手の届く距離にいて、触れあうことができる。
 それができなかった悲しみを知っている私は、限りなく幸せなこの運命に、そして変わらずいつでも私を思っていてくれる呂雄に、ただただ祈りをささげる。


 この幸せが、いつまでも続きますようにと。
 きっと、悲しい炎の記憶が消えるのも、そう遠くない未来であると信じて――――
 






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