しあわせのはじまり
「じゃあ、行ってくるよ」
すがすがしい朝のこと。
ベルナールは玄関から、キッチンにいるアンジェリークにそう声をかけた。
「はーい、あ、ちょっと待ってください」
ぱたぱたとかわいらしく音を立てながら、キッチンから彼の奥さんが駆け寄ってくる。
「はい、お弁当です」
「ありがとう。いつもおいしくいただいているよ」
「そんな・・・良かったです」
手渡された包みを大切に抱えると、ベルナールはにっこり微笑んだ。
「今日もまた、なるべく早く帰るからね。知らない人が訪ねてきても、家に入れちゃ駄目だよ」
「もう子どもじゃないんですよ。心配しすぎです」
「あはは、そうだね」
そうやってうなずきながらも、毎朝同じことを言うんだから。
アンジェリークは少し頬を膨らませる。
「そんな顔しないで。僕は君が心配なだけなんだから」
「・・・はい」
心配してくれるのはありがたいことだが、子ども扱いされるのはいやだ。
そう、顔に出ていたのだろう。ベルナールはふっと目を細めた。
そして、アンジェリークの額に軽くキスを落とした。
「!」
「行ってくるよ、奥さん」
「は、はい」
じゃあね、と何度も振り返って手を振るベルナールを、アンジェリークはどこか惚けた様子で見送った。
・・・びっくりした。
遅ればせながら鼓動がどんどん速くなる。
夫婦なのだから、別に普通のことなのかもしれないが、なれないアンジェリークにとっては心臓に悪い。
子ども扱いされるのはいやだが、こういうところがまだ子どもなのかもしれないと、がっくりと肩を落とす。
と。
「ご、ごほん」
背後から控えめながらも、咳払いがした。
あわてて振り返ると、ベルナールの父親、アンジェリークにとっては親戚のおじさんに当たる紳士が、やや気まずそうに立っていた。
先日、ようやく親子のわだかまりも解け、晴れて同じ屋根の下に暮らすことになったのだ。アンジェリークにとっても、昔お世話になった人物なので、一緒に生活することに違和感はなかった。
むしろ昔みたいに、ベルナールと彼の父親、そして自分の三人でないと、かえっておかしな気さえした。
これから職場である大学に向かうのであろう彼は眉を寄せ、渋い顔をしている。
「まったく、いい年して、あいつは・・・」
ということは、一連のやり取りを見ていたということか。
かっとアンジェリークの顔が赤くなった。
「す、すみません・・・」
「いや・・・まあ、な」
あいまいに言葉を濁すと、彼は玄関の扉に手をかけた。
「あの、おとうさまは、お帰りは・・・?」
「ああ、いつもと同じだ」
「じゃあ、夕飯はまた三人で食べられますね」
「う、うむ・・・」
何だかんだ言っても親子なんだな、とアンジェリークは思った。
お互いすれ違いはあったけれど、やっぱり嫌ってなどいなかったのだ。
現にこうして和解して、また同じように生活しているんだから。
三人で食卓を囲むのが、アンジェリークはとても嬉しかった。
すると、何を思ったのか、出て行きかけた彼が、ふと振り返った。
「どうしたんですか?」
「君には、感謝している」
「え?」
突然そんなことを言われたものだから、アンジェリークはまじまじと義父を凝視する。
「こうしてまた、親子で暮らすことができるとは思っていなかった。今の生活があるのは、君がいたからだと思っている。それは・・・とても感謝している」
「そんな、私は何も・・・」
「そう思うなら、私の言葉は忘れてくれてかまわない。少なくとも私は、君のおかげだと思っている」
「おとうさま・・・」
言いたいことだけ言ってしまうと、彼はさっさと出て行ってしまった。
一人残されたアンジェリークは、ベルナールからのキスと、寡黙な義父からの感謝の言葉で、びっくりするやら嬉しいやら分からない。
――――ただ。
仕事に出かける二人を見送り、家の中のことをやって、また二人の帰りを待つ。
その日々がどれだけ幸せなことか。
日を重ねるごとに増すその思いに、アンジェリークは素直にこの幸せがこの先ずっと変わらぬようにと祈らずにはいられなかった。