七分咲き




「悟浄、待って下さい」

「え?」


 天竺までの道のりはまだ長い。
 山越えを決行している私達は、悟浄を先頭に八戒、玉龍が私の脇を固め、倒れそうな悟空に注意を払いながら歩いていた。


 あまり人通りもないのか、道というには心もとない獣道が続いている。
 先頭の悟浄は歩きやすくなるように足元を踏み固め、小枝を払ってくれていた。
 その悟浄の手元に視線を向けた私は、あることに気付いたのだ。


「どうなさいましたか、玄奘様」


 悟浄は自分の異変に気づいていないのか、不思議そうな顔で振り向いた。
 その彼の手を、私は指さす。


「悟浄、手から血が出ています」


 剣をふるう手に、小枝に引っかけたのか、擦り傷ができている。
 血が滲んでいるところを見ても、しかし、悟浄は別段驚かなかった。


「ああ、いつの間に」

「大変です。早く手当てしないと」


 私は荷物の中から薬草を取り出そうとしたが、悟浄はそれを止める。


「大丈夫です、玄奘様。薬草は玄奘様がお怪我をなされたときに使うものですから、俺に使う必要はありません」


 いつもの悟浄だったが、私にはその言葉が納得できなかった。


「何を言っているのです。薬草は怪我をした人のためにあるものですよ。悟浄に使って何が悪いんですか」

「俺に使うのは勿体ないです。大した傷ではありませんから」


 言葉は穏やかだけれど、悟浄はそう言い張って頑として譲らない。
 それが、無性に引っ掛かった。


「悟浄、良いから手を出して下さい」


 思いがけず強い口調になってしまった。
 悟浄ばかりではなく、隣にいた八戒も驚いたようだ。


「まあまあ、姫さん。そんな大した傷でもなさそうだよ。そんなに大げさにしなくても、悟浄は死なないって」

「でも、悟浄は私の手にささくれができただけで、包帯を巻くような人ですよ」

「そりゃ女の子の手に傷ができたら手当てしたくなるって・・・・・・まあ、ちょっとやり過ぎだけど」

「そんなことない。玄奘様の大切なお手に、もしもばい菌でも入ってみろ。取り返しがつかない事態になるぞ」


 悟浄は大真面目だから、本気でそう思っている。
 私のことになると過剰な手当てをするくせに、自分のことは後回し。
 それが、私には嫌だったのだ。


 私の心情を読み取ってくれたのか、八戒がとりなすように明るく笑った。


「野郎の傷は、名誉の負傷だぜ、姫さん。ちょーっと格好つけてみたくなるんだって。『こんなの大したことないぜ。舐めときゃ治るぜ』みたいな」

「分かりました」

「へ?」


 何が分かったというのか、という目で八戒が見ている。
 悟浄は八戒の言葉にため息をついていた。
 その隙に悟浄の手をとるのは簡単だった。


「え、玄奘様・・・」


 何か言いかけた悟浄を無視して、私は彼の手の傷に口をつけた。


「なっ!?」


 驚いたのは悟浄ばかりではない。隣の八戒もだ。
 そのくらい彼らにとって私の行動は予想外のものだったらしい。


「舐めとけば治ると、八戒は言いましたから」


 さすがに気まずくなってそう付け加えると、何故か悟浄は八戒に向かって怒りをあらわにした。


「八戒! お前が余計なことを言うから!」

「ええ!? オレのせいかよ!?」


 ぎゃあぎゃあと喧嘩し始めてしまった――――正確には、騒いでいるのは悟浄の方だけれど――――二人を見ていられなくて、私はさっさと歩を速める。


「お師匠様? 大丈夫? あいつら流そうか?」


 心配そうに玉龍が声を掛けてくれたことで、少しだけ冷静になれた。


「いいえ、玉龍。そんなことをしたら、後ろの悟空まで流されてしまいます」

「僕は別に、構わないけど、お師匠様がそう言うなら」


 言葉は少ないが、いつも玉龍は私に気を遣ってくれる。
 それはとても嬉しいことなのだけれど、この時ばかりは私の顔を見てほしくはなかった。


「・・・・・・」


 今更ながら自分のしでかしたことに、顔が赤くなってきた。


 ――――頭に血が上って、私は何てことを・・・!


 これまで男性の手を握る機会もなかった私が、あろうことか怪我を舐めるなんて。
 孤児院で面倒を見ていた童子に対してならばいざ知らず、自分よりも年上の男性を相手にそんなことをするとは、自分でも驚き過ぎで声も出ない。


 ちらり、と不意に視線を後ろへ向けると、


「!」


 どういうわけか、ばっちりと悟浄と目があってしまった。


「っ・・・!」


 とっさにお互い顔を背けてしまった。
 悟浄の顔も、真っ赤だったような・・・。
 一瞬だけそんな風に見えた気がしたのだけれど、自分の顔の紅潮に気をとられて、それどころではなかった。


「お師匠様?」

「な、何でもありません、玉龍」


 可笑しい。
 悟浄と目があっただけなのに。
 こんなにも顔が熱い。


 後ろでは飽きもせずに悟浄が八戒相手に、がみがみと説教していた。
 いつの間にか内容は、普段の八戒の行動をいさめるものになっている。
 その声すらも、私の心を落ち着かせてくれない。


「おーい、こら。俺のこと忘れてんじゃねえのか? 死にそうなんだけど、おーい」


 後ろから悟空が悲痛な訴えをしていたのにも、全く気付くことはできなくて。
 悟空がついてきていないという事実を、山も越えようかというくらいで、私達はようやく気付いたのだった。








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