Shining smile


〜前編〜






 触れる指の冷たさにはいつも驚かされている。
 けれど、思い切って掴んだ手を振り払われない喜びが、冷たさへの驚きなどすぐに消し去ってしまう。


 ――――学校からの帰り道。
 部活終わりの岐路で見覚えのある広い背中を見つけた途端、私はいてもたってもいられず、走り出していた。


「冥加さん!」


 一緒に帰る約束をしているわけではない。
 でも、夏の全国大会以降・・・私たちが恋人同士になって以降、部活の帰りに冥加さんを見つけることが多くなった。


「こんにちは。今帰りですか?」


 勢いのまま手を繋いでみる。
 最初こそ驚かれたものの、今はわずかに眉を寄せられるだけになった。
 まだ甘えるのには慣れないけれど、拒まれない嬉しさは日に日に増している。


「今日も会えて良かった。冥加さんに会えた日は、今日も良い一日だったなーって、幸せに一日を締めくくれるんです」

「何だ、それは」


 素っ気ない答えながらも、ちゃんと会話してくれる。
 今までが今までだったので、隣を一緒に歩いてくれるだけ、他愛無い話題でおしゃべりしてくれるだけが、凄く凄く嬉しく感じる。
 普通のことなのに、随分と贅沢な気持ちになるのだから、不思議だ。


「ふふっ」


 つい笑みがこぼれると、冥加さんは顔をしかめた。


「何を笑っているんだ。気味が悪い」

「冥加さんと一緒にいられることが嬉しくて、つい笑ってしまうんです。気味が悪くても良いんです」


 やや浮かれ気味な私に対し、冥加さんはいつでもクールなままだ。
 けれど激しく私を憎悪していたかつての彼とは比べ物にならないくらい、穏やかな空気を纏っている。
 感情の矛先を向けられていた私だから分かる。
 浮かれている、とまではいかなくても、冥加さんも変わった。
 素っ気ないながらにも優しさが垣間見える。


「・・・・・・」


 ほら、今みたいに。
 私の歩調に合わせて歩いてくれる。
 冥加さんの優しさに包まれているようで、何だかくすぐったい。


 私達の帰り道は、ほんの十数分だ。
 どこかへ寄り道することはほとんどないから、お互い分かれ道まで歩いて、そこでまた今度、となる。
 時間は少ないけれど、帰り道に会う機会は日を追うごとに増えていたから、あまり寂しさは感じなかった。
 また明日も会える。
 当たり前のことだけれども、本当に幸せだ。


「じゃあ、私はこっちですから」

「ああ」


 手を離す瞬間だけはどうしても名残惜しいけれど、そんなことまで言ったら贅沢過ぎて罰が当たるかもしれない。
 明るく笑って手を振って、歩き出した私に思いがけず声がかかる。


「小日向」

「はい」


 振り返ったと同時に、


「気をつけて帰れ」

「!」


 冥加さんはそれだけ言うと、速足で去っていく。
 私は驚きで、しばらく呆然とその場に立ち尽くしてしまった。
 初めて、そんな労いの声を掛けられた。
 特別なことは言われていない。
 それなのに、冥加さんが掛けてくれた言葉だから、何よりも大事なもののように思える。


「・・・菩提樹寮に帰るまでに、顔が赤いの治るかな?」


 両手で火照った頬を押さえながら、私も歩き出した。
 その時、突然後ろから肩を掴まれた。


「きゃっ!」


 驚きで思わず悲鳴を上げてしまったが、そこに見知った顔を見てすぐにほっと胸をなでおろした。


「冴香さん!」


 全国大会で出会った、九州の女帝と呼ばれる円城寺冴香さんは、女の子もうっとり憧れる凛とした美人だ。
 全国大会以来の再会となる・・・・・・のだ、けれど。
 冴香さんの表情は暗かった。


「あ、あの・・・」


 その表情に圧倒されたのと、掴まれた肩に籠る力が強かったのとで、私は次の言葉に詰まった。
 一体どうしたんだろう。
 私が怪訝な表情を浮かべたのと、冴香さんが口を開いたのは同時だった。


「どうして、君は冥加玲士と一緒にいるんだ」

「え・・・?」


 冴香さんの両手が、私の肩をぐっと握りしめる。
 指が食い込んで痛いのに、目の前の痛々しい表情の冴香さんから目が離せない。


「あの男は、我が弟を破滅に追いやった張本人だ! あいつのせいで、弟はまだヴァイオリンを触れない。君のおかげで少しずつヴァイオリンにも前向きになってきたのに、当の君が冥加と親しくしているとは!」

「!」


 それは、全国大会での記憶。
 冥加さんと対峙した冴香さんの弟の阿蘭くんは、冥加さんのヴァイオリンの音を聴いた途端、その圧倒的な絶望感の前に、一時はヴァイオリンを捨てる寸前まで追い込まれてしまった。


 冴香さんはそんな阿蘭くんを心配し、また元凶となった冥加さんへ強い負の感情を抱いていた。
 直接対決を経てはいるのだけれど、阿蘭くんの心の傷が癒えるにはまだ当分の時間がかかる。


 前に一度、全国大会のファイナル前に、つらそうな阿蘭くんに会ったことがあった。
 あのときは少しでも阿蘭くんを元気づけたくて、まだまだ未熟ながらヴァイオリンを弾いた。
 拙い演奏だったのに、阿蘭くんはすごく喜んでくれて、ヴァイオリンとまた向き合うことを約束してくれたのだ。


「見損なったぞ! 君が冥加と親しくしていると知ったら、弟はまた傷つくかもしれない。故に、私はここで見たことを弟に告げるつもりはない」


 冴香さんの言葉がナイフとなって私の胸を抉る。


「然るに君も、あの冷酷無比な冥加と関わりを持ち続けるならば、二度と私達の前に現れないでもらおう」


 まっすぐ向けられた冴香さんの視線。
 裏表もなく、堂々としていて、信念を持っている。
 格好良いお姉さん。素敵な女性。
 それは私も認める。
 でも、一つだけ許せないところがあった。


「待って下さい! 冥加さんは冷酷無比な人なんかじゃありません」


 反撃があるとは思っていなかったのだろう。
 冴香さんは驚きつつも、私を真正面から睨みつける。


「だが、あいつのせいで弟は心に傷を負った!」

「冥加さんは誰よりも音楽に対しては真摯です!」


 お互いに、一歩も譲らない。
 冴香さんの迫力に圧倒されながらも、ここで引くわけにはいかなかった。
 前の、冥加さんをあまり知らないときの私なら、冴香さんの言葉に傷つき、悩み、悲しんだかもしれない。
 あるいは、冥加さんへの評価を改めてしまったかも。


 でも、私は知ってしまった。
 気がついてしまった。
 冥加さんの求めるものはいつだって高い所にあって、そこに至るまでの努力を誰よりも惜しまない人だって。
 人をわざと傷つけるようには見えないのだ。
 特に今の冥加さんは。


 別れ際に声を掛けてくれる。
 かつて激しく傷つけたはずの私を受け入れてくれる。
 そんな人が、冷酷無比であるはずがない。


「――――っ、ここで論じていても、埒が明かないな」


 先に視線を外したのは冴香さんだった。


「これ以上君と話しても無駄のようだ。私はこれで失礼する」


 有無を言わさぬ凛とした様子で、冴香さんは元来た道を歩いていってしまった。
 その後ろ姿が見えなくなるまで、私はじっとその場に立ち尽くしていた。









 その日を境に、私の周りは急に忙しくなった。
 全国大会を終え、三年生の先輩はそろそろ引退かと思われていた日々だったのだが、突如コンサートの話が舞い込んだのだ。
 今年度の全国大会のレベルは非常に高く、ぜひ出場校を集めてコンサートを開きたい、という話らしい。
 音楽関係者や全国大会の観客らに請われて、星奏学院の理事長が動いたということなのだけれど、詳しい話はよく知らない。


 とにかく再び、競うという形ではないけれど、ライバルたちと同じ舞台で演奏できることになったのだ。
 冴香さんがこちらに来ていたのは、どうやら打ち合わせのためでもあったようだ。


「コンサートはあと十日後。全国大会での演奏をもう一度、というのがコンセプトのようだから、曲目を変えるつもりはない。優勝校として最高の演奏をしよう」


 そう言った律くんは、人目には分かりづらいかもしれないけれど、久々に目を輝かせていた。
 練習を重ねた曲ではあっても、律くんの言った「優勝校としての最高の演奏」へのプレッシャーは大きい。


 練習は夜に至るまでになり、冥加さんとは会えない日々が続いた。
 朝晩の「おはよう」「おやすみ」のメールは送り続けていたものの返事はなかったので、きっと向こうも準備に忙しいのだろう。


 冴香さんともあれから会ってはいない。
 冥加さんと会えない寂しさ、冴香さんとの衝突。
 考えればぐるぐるしそうだったけれど、今はそれらすべてを呑みこんで、目の前のコンサートに集中することにした。


 考えて考えて練習がおろそかになって、みっともない演奏をしてしまったら、私の気持ちは誰にも届かなくなってしまう。
 伝えたいことがあるなら、それはヴァイオリンの音で。
 私達は言葉なんかよりも、それできっと気持ちを通じ合えるはずだから。


「ずいぶん頑張っているようだな」


 コンサートの前夜、一人残って練習をしてきて帰りが遅くなった私を、食堂で律くんが迎えてくれた。


「うん、最後まで確認したくて」

「納得はできたか?」

「・・・うん」


 大丈夫。
 最後の最後まで、確認した。
 練習はもとより続けてきたし、この十日間だけでも手ごたえを感じている。


「その割に、浮かない顔だな」

「!」


 手元の本から顔も上げずに律くんはそう断言したので、思わず私はヴァイオリンケースを落としそうになった。


「分かるの?」

「ああ」


 どうして律くんにはばれているのだろう。
 長い付き合いだからかな。
 頬に手をやって、目を瞬かせていると、律くんの静かな声が返ってきた。


「緊張しているんだろう。自信があると言いながら、顔がこわばっている」

「そんなに分かるかなぁ?」

「ああ、俺が気づく程度には」


 ということは、大地先輩には勿論、響也やハルくんにも気を遣わせているのかもしれない。


「ごめんね、心配掛けて」

「いや、気にすることはない。お前が誰よりも練習しているのは皆知っている。むしろお前のひたむきさに触発されて、アンサンブルメンバーに良い影響が出ているくらいだ」

「・・・・・・」


 みんなと一緒に最高の演奏をする。
 最高の演奏をしたい。
 それによって届けたい想いがあるから。


「変だね、練習はいっぱいやって、最終確認もして。でも気を抜くと不安がこみ上げて来て・・・」

「小日向」


 律くんはおもむろにカップを差し出してきた。
 まだ湯気の立つこれは、


「麦茶?」

「ああ、さっき沸かしたところだ」


 大真面目にうなずきながら、私にカップを握らせる。


「温かいものを飲めば、気持ちが少しは落ち着くだろう。あとはやるべきことをする。それだけだ」

「律くん・・・」

「それに、本番は俺たちもついている。最善を尽くそう」

「うん」


 カップから伝わる温かさは、律くんの優しさでもあるような気がする。
 私、本当にここへ来られて良かった。
 思い切って一歩踏み出して、今までにないくらいヴァイオリンと向き合うことができた幸せを、今更のように感じる。
 そうでなければ、大切な人にも再び巡り会わなかった。
 ずっとこじれたままだった。


「ありがとう、律くん」

「部員の調子を気遣うのは部長として当然のことだ」


 そう言って、律くんは背を向けた。


「じゃあ、おやすみ」

「うん、おやすみ」


 律くんを見送ってから、私も部屋へ戻った。
 律くんの言ったとおり、温かい麦茶は体だけでなく心も落ちつけてくれたようだ。


 落ちついたところで、改めて思う。
 明日冴香さんに伝えたいこと。
 自分が非難されることよりも、冥加さんが誤解されていることの方がいたたまれない。


 私は冥加さんを信じている。
 そのことを、ヴァイオリンを通じて伝えたい。
 そこでいつも躓く。
 ――――もしも、うまく伝わらなかったら・・・。


「っ! ダメダメ! こんなんじゃ!」


 私はとっさにヴァイオリンを取り出すと、息を大きく吸い込んだ。
 覚悟は決めたはず。
 律くんもみんなも、一緒にいてくれる。
 だから、悩むのはこれで最後だ。


「――――」


 気がつくと、私は「愛のあいさつ」を弾いていた。
 どうしてこの曲なのか。
 何故今なのか。


 疑問はあったけれど、何故か今弾かなくてはと思った。
 弾いて、冥加さんへの思いを確かめたかったのかもしれない。
 この音が実際冥加さんの耳に入ることはなくても、少しでも気持ちが伝われば良い。


 私をいつも導いてくれた人。
 今の私があるのは、冥加さんが真っ向から私と向き合ってくれたから――――


「!?」


 そのとき、私の耳に信じられないものが聞こえてきた。


「え・・・?」


 そんなわけがない、と思うのに、私はこの音を誰よりも知っていた。
 私の演奏に重なって、冥加さんのヴァイオリンの音が聞こえる。
 幻聴じゃない。


 私の音に重なる、優しく温かいメロディ。
 まるで私の想いに応えてくれているようで。
 夢中でその先を弾いていた。


 私も、冥加さんが好き。


 この気持ちは誰にも変えられない。
 つかの間のデュエットの後、演奏の興奮もそのままに、私は冥加さんにメールを送った。


「今、冥加さんと一緒に『愛のあいさつ』が弾けて、嬉しかったです。おやすみなさい」


 こんなメールが突然来たら、きっと冥加さんも驚くに違いない。
 でも今のこの興奮はどうしても抑えられなかったのだ。
 変に思われるのを覚悟で送信。


 ようやく覚悟が決まった。
 すっきりした気持ちでヴァイオリンを片付けていると、普段はならないはずの返信を告げる着信音が聞こえた。


「え?」


 慌ててディスプレイを覗き込む。
 ここ数日、一度だって返信はなかったのに。
 おかしい内容だと抗議が来たのだろうか。
 色々な意味でドキドキしながら、冥加さんからのメールを開く。


「ああ。おやすみ」


 思わず読み上げた。
 たったこれだけ。


 けれど冥加さんは、私の言葉を否定しなかった。
 ちゃんと返事をくれた。
 それだけでとてつもなく嬉しい。


 明日はきっと、大丈夫。
 そんな確信を胸に、私は眠りについた。












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