新婚さん気分




「はぁ・・・」


 水泳の授業は得意ではなかったと思う。
 息継ぎが上手くいかなくて、途中で足をついてしまうのもそのためだった。
 溺れそうになるのが怖くて、すぐに水から顔を上げてしまってほっとしていた。


 それが毎年夏の体育の恒例。
 息継ぎは得意じゃなかった。
 溺れてしまうのも怖かった。


 ――――でも、今のこの状況は、嫌でも怖くもない。


「何や、もう息が上がってしもうたんか」


 つい今まで私のそれをふさいでいた唇から、艶を含んだ吐息と共に笑いがこぼれたので、カッと顔に血が上った。
 目の前にいる蔵ノ介さんは、そっと私の頬を撫でながら、少しだけ意地悪な笑みを浮かべる。


「これやったらいつか窒息させてしまうわ。今かて抑えに抑えとるんやで」


 そう言って、また口付けられる。


「まぁ、初々しい反応もたまらんのやけど」

「もう・・・」


 私は蔵ノ介さんの腕を掴んだ。
 久しぶりの再会だった。
 全国大会も終わり、部活の方もひと段落したという蔵ノ介さんが、こちらへ遊びに来たのだ。
 二人で話し合って、あちこち回ろうとデートプランを考えていたのに、会ったとたんに計画は破たんした。


「静、こっちや」

「え? どうしたんですか?」


 計画を無視した蔵ノ介さんにぐいぐいと腕を引っ張られ、近くのカラオケボックスに連れて行かれたかと思うと・・・・・・今のこの状況に至る。


「もう、蔵ノ介さんたら、何も言わずに勝手に計画変えちゃうんですから。この先どうするんですか?」

「んー? 俺のせいちゃうよ。静が可愛すぎんのがアカンのや」

「さっきからそればっかりじゃないですか」

「しゃあないやん。それしか言いようないねんて」


 蔵ノ介さんは私を後ろから抱き締める。


「俺かてこんなんいきなりするつもりなかったわ。俺の計画は完璧やったんやで? でも、静を見たとたん、全部吹っ飛んでしもうたわ」


 だから静が悪い、と蔵ノ介さんはびしりと言い張る。
 そんな、無茶苦茶な。


 そう思う一方で、そこまで思っていてくれることに、喜びを感じる。
 とても嬉しい。


「アカン。その顔、めっちゃ可愛い」

「きゃっ! ちょ、ちょっと待って下さい!」

「待てん。大人しゅうしとき。大丈夫や。悪いようにはせんから」


 背後から蔵ノ介さんの唇が襲う。
 顔を背けることはできない。
 背けることはしたくない。


 私は少し体をずらして、素直に彼の意思に従う。
 困った人だと思う半面、そして恥ずかしくもあるけれど、こんな風に私を求めてくれることが嬉しいことだと思う。


「これから、どうするんですか?」


 見事に午前中はつぶれてしまった。
 もうお昼の時間だ。
 このままカラオケルームにこもりっきりというのもどうかと思う。
 すると蔵ノ介さんの答えはあっさり返ってきた。


「静、うちにご両親はおるんか?」

「え? いえ、両親は仕事で夜まで帰ってきませんけど」

「じゃあ、静の部屋直行がええな」

「ええっ!?」


 そんな予定は計画には欠片も組み込まれていなかった。
 もとよりそのつもりがないのだから、部屋の片づけだってしていない。


「だ、駄・・・」

「駄目やないよな、静。ついでに静の手料理で昼食、とかがええんやけど」


 さらにさり気なく予定が付け足されている。


「このままスーパー行って一緒に材料買って、静が料理作ってくれんのを、俺は待っとる。んで、食事後はまったり二人っきり・・・・・・何や、新婚さんみたいやと思わへんか?」

「え?」


 私は「新婚さん」という一言にぴたりと動きが止まった。
 新婚さん・・・。
 その様を想像しただけで、私はぼぼっと頭が沸騰する。
 エプロン姿の私と、テーブルに肘をついて食事の準備が整うのを待っている蔵ノ介さん・・・。


「な、ええやろ? 一足早い新婚さん」

「う・・・は、はい・・・」


 一足もふた足も速いのかもしれないけれど、新婚さんは嬉しい。


「よっしゃ、決まりや。そうと決まれば移動や! 気合い入れていくで」

「はい!」


 お昼は何にしよう。
 蔵ノ介さんは、和食と洋食、どっちが良いのかな。
 私が必死に献立を考えている中、蔵ノ介さんは私の手を引きながらぼそぼそ呟いていた。


「こんなとこで押し倒したら嫌われること確実やからな。危ない危ない。まあ、ひとまず部屋に連れ込んでもうたら、あとはなるようになるわ。静の手料理も食えるし、二人っきりやもんな」


 よし、と小さくガッツポーズをしていたみたいだけれど、私は全然気がつかなかった。










back