深夜の逢瀬
「なっ・・・!?」
自室に戻った譲は、部屋の中の電気をつけるや、そこに待ち受けていた人物に目を瞠った。
「先輩!」
思わず出しかけた大きな声を、待ち受けていた望美が慌てて制した。
「しっ! 静かに! みんなに気づかれちゃう」
「そ、それは、そうですが・・・」
それ以前に、何故彼女が自分の部屋にいるのか、譲にはさっぱり分からなかった。
あの不思議な世界から戻ってきて数日。
ついでに言うと、九郎たちがこちらの世界へ来てしまってから同じだけ時が経っていた。
散々理由を考えた挙句、皆を家へ連れてくると、懸念の種の両親は海外へ出発したあとだった。
異世界に飛ばされるということがなければ、何の前触れもなく両親は息子二人を置いて年明けまで帰ってこないのである。
冷静に考えればひどい話であるが、この状況ではその常識破りの行動はむしろ天の恵みに近い。
とりあえず年明けまでは皆を家に留められるということで、一同はほっと一安心した。
特に三年余計に年を取ってしまった将臣などは、「これで安心してクリスマスが過ごせる」などとおどけて見せた。
十人という大所帯での生活にも慣れ、少しずつ以前の生活を送り始めていた。
望美だけは自分の家へ帰るが、寝るとき以外はほとんど有川邸に入り浸っている。
ついさっきも、クリスマスについて盛り上がっていたところだ。
それで、時間も遅くなってきたので、お開きになったのである。
おのおの部屋へ引き返したり風呂へ入ったり、はたまたリビングに残ってくつろいでいたりと、客人はすっかり自分の家のように過ごしていた。
譲はキッチンで洗い物を終え、明日の朝のご飯をセットし終わってから、風呂に入ってようやく自分の部屋へ帰ってきたのだ。
帰ってきたら望美がいたのだから、驚くのは当然だ。
譲は何故かあたりの気配を探りつつ、侵入者に歩み寄った。
「先輩、どうしたんですか、こんな時間に」
声を潜めて問うと、望美は悪びれた風もなくにっこりと微笑んだ。
「何か、こうして二人で話すのってすごく久しぶりだね」
どういうわけか、こちらに帰ってきてからは譲と話す機会がないと、望美は感じていた。
あちらの世界にいたときは朝から晩まで一緒にいたのに、急に距離が離れてしまった気がするのだ。
家が違うし、学校でも学年も部活も違うのだから、仕方ないといえば仕方ない。以前はそれが当たり前だったのに、今は何か足りない。
そう思い始めたら止まらなくなった。無性に譲と二人で話をしたくなって、こんな暴挙に出たのだ。
「前、ヒノエくんが部屋にやってきたことがあってね」
「ヒノエが?」
「うん。だから、お隣からうちへ来られたってことは、逆もありだよね。良かった、無事たどり着いて」
明日の朝食にヒノエの味噌汁だけ大量のタバスコを容赦なく盛ってやろうとひそかに譲が考えていようとは、ほっと胸をなでおろす望美は気づいていまい。
「そんな危険なことをしなくても、普通に玄関から入ってくれば良かったのに。もしものことがあったらどうするんです。ヒノエの命だけでは償いきれませんよ」
「・・・譲くんて、たまにすごい怖いこと言うよね」
「っ、そ、それは・・・」
あなたのみが一番心配だからです、という言葉を譲は飲み込んだ。
口にしてはいけない、というのを長年心に決めていたためか、その先が自然と続かなくなる。
返答に困っている譲を、望美は手招きした。
指示されるとおり、ベッドに座っている彼女の隣に腰掛けると、思いのほか近くに彼女の存在を感じて、譲の鼓動はにわかに騒ぎ出した。
「そ・・・それで、何の用だったんです?」
慌てて話題を振ると、急に望美が頬を膨らませた。
「せ、先輩?」
何かまずいことを言っただろうかと首をひねる譲に、
「譲くん、冷たい!」
望美はびしっと指をさした。
「誰にも邪魔されず二人だけで話したかったのに。何か用がなきゃ来ちゃいけないの?」
「え・・・?」
激しくご立腹の様子の望美を、譲は穴が開くほど見つめた。
よもや彼女からそんな言葉が聞けようとは。
嬉しいはずであるが、あまりの不意打ちに譲は返す言葉を失っていた。
「あっちでずっと一緒にいたからかな。何か、朝譲くんじゃなくてお母さんに起こされるのってすごく違和感あるんだ。朝ごはん食べるときとか、一人で学校行くときとか。何か違うって思っちゃうんだよね」
「そう、なんですか・・・?」
「うん。何だろう、前とやっぱり違うなぁって。向こうに行ってたこと、嘘じゃないんだって実感するよ」
あれだけもとの世界に帰ることを望んでいたのに、いざ帰ってきてみると、あちらの世界での習慣が思いのほか染み付いていて、逆にもとの世界を特殊なものに感じてしまう。
望美にとって、その際たるものは譲との距離だった。
「前はこれが当たり前だったのにね。学校でも家でも、毎日顔を合わせてはいたけど、ゆっくり話をすることは少なかったし。でもね、今はそれがちょっと寂しかったりする」
「先輩・・・」
思いがけず嬉しい言葉を聞けて、ようやく譲もじわじわと感動が胸に広がってきた。
確かに、一日中ずっと一緒にいたときから比べれば、今の生活のなかでは二人一緒にいることは少なくなった。
一緒にいたとしても、みんなもいるので、二人きりという状況は本当に少なくなった。
同居人のお世話に忙しかった譲は言われて初めてそれと気がついたが、望美がそのようなことを思っていてくれていたのが、何よりも嬉しい。
「それで、わざわざ危ないまねをして俺の部屋に来たんですか?」
「うん。・・・やっぱり怒る?」
不安のにじむ顔で上目遣いに見上げる望美に、一瞬息を呑んだ後、やや顔を背けつつ譲は首を振った。
「まさか。その・・・う、嬉しいです・・・」
最後の一言は独り言に近かった。案の定望美の耳までは届かなかったようだ。
「迷惑じゃないなら良かった。うん、安心した」
何度もうなずきながら、望美はほっと息をついた。
「お母さんがね、最近言うんだ。あんた、毎日有川さんのお宅に入り浸って、迷惑でしょ、って。確かに入り浸っているんだけど・・・」
「そんなこと、気にしていたんですか?」
「そんなことって、ちょっと本気で悩んだんだよ?」
「す、すみません。でも、全然気にすることではないですよ」
望美は知らないところで色々気を遣っていたのだと、譲は初めて気づいた。
確かに、以前はこんなに望美が有川邸にいることもなかった。
子どものときは互いの家を自由に行き来していたものだが、ここ最近はそんなこともなくなっていたのだ。
望美たちが異世界ですごした時間を知らない彼女の母親にしてみれば、急に娘が有川邸に言ったまま長い間帰ってこないというのは、驚きだったろう。
年が経つと、いつの間にか当たり前だったことが当たり前でなくなってしまう。
その逆も然りだが。
しみじみ譲はそう思った。
――――最も、この胸の奥に根を張る彼女への思いは、どれだけ時が過ぎようとも成長し続け、枯れることはないのだが。
そんな感傷に浸ったのが、余計な一言を生んだ。
「俺は、先輩にはずっとうちにいて欲しいくらいです」
「え?」
驚いた望美の顔を見て、譲は己の失言に自分で驚いた。
これでは一緒に住んでほしいといっているのと同じだ。
「あっ・・・そ、その・・・。そ、そのほうが、みんなも喜ぶと思いますよ」
うまいごまかし方がとっさに浮かばず、苦し紛れに譲はそう取り繕った。
本当は、皆もいないようなところで二人過ごせたら・・・などという考えいたって、あわてて首を振る。
「・・・そっか」
混迷を極める譲の心のうちなど想像もできない望美は、彼の言葉を素直に受け止めたようだ。
はにかむように微笑んだ。
「そういってもらえると、嬉しいな」
「だ、誰も、先輩を迷惑なんて思う人はいません」
もしそんな奴がいたら俺がしとめます、という言葉は、今度は飲み込めた。
「ありがとう」
そっと望美は手を伸ばすと、譲のそれをとった。
「せ、先輩!?」
急に触れられて大げさなほどの反応を見せる譲などお構いなしに、彼の手をしげしげと眺める望美。
「どうしたんですか急に何か俺の手はおかしいですか俺にはわかりませんが」
句読点も忘れて一気にまくし立てると、ようやくその手は解放された。
それはそれで残念な気持ちがわくので、もはや譲は自分でも何がしたいのか分からなくなった。
例によって彼の複雑な心境などつめの先ほども分かっていない望美は、ごめんごめん、と軽く謝っただけだ。
照れや恥じらいなど一切見受けられない。慣れているとはいえ一人どぎまぎしている自分に、譲は一抹のむなしさを感じた。
「実は、こないだこっそり、譲くんが練習しているところを見に行ったんだ」
「えっ、い、いつです?」
「えーと、いつだったかな。おとといかその前か。あ、昨日だったかも」
「先輩・・・」
「あ、そんな目で見ないで。ほ、ほら、休みに入ってすぐだよ」
冬休みに入ったとはいえ、弓道部は部活を続けていた。
思い立ってこっそり様子を見に行ったのだ。
「的の真ん中に矢がささって、譲くんすごく格好良かったよ」
「あ・・・ありがとうございます・・・」
見られていたことなど気づかなかった譲は、恥ずかしさの浮かぶ顔を思わず背けた。
「あの時、矢を射った手はどんな手なんだろうって、気になっていたんだ」
「そ、そうなんですか」
「うん。でも、普通の手だよね」
望美が自分の手に視線を向けただけで、鼓動が早鐘を打ち始める。
そんな自分が、何と言うか・・・譲は軽くため息をついた。
「・・・でも、やっぱり男の子の手だね」
「え?」
ふと顔を上げると、望美は少し困ったような表情を浮かべていた。
「昔はよく手をつないでいたでしょ。そのときは私のほうが大きかったんだよ。手だけじゃなくて、背もそうだけど」
「それは・・・俺も小さかったですから」
「うん。背だって、小学生の頃は私のほうが大きかったし。それが急に大きくなっちゃって」
まるで親戚の子の成長を驚くような望美の口ぶりに、珍しく譲は強い口調で言い返していた。
「年が経てば、俺だって守られてばかりじゃない。先輩を守れるくらい大きくなります」
「え?」
「・・・あっ!」
今夜は何かがおかしい。
この日二度目の失言に、譲ははっとしたがもう遅い。
普段聞かれてもかまわないことは望美の耳には届かないのに、こういう余計なことばかりきっちり伝わってしまうのはどういうわけだろう。
目を見開いて譲を凝視する望美の視線が、今はひたすら痛い。
「・・・・・・」
気まずい空気に耐えかねて顔を伏せた譲の耳に、不意に奇妙な声が聞こえた。
「先輩?」
ゆっくり顔を上げると、不審な声の主の崩れた相好が目に入った。
「・・・そっか、うん。そっか、そうだよね」
照れたように頭を掻く望美は、何をそんなに納得したのか何度も何度もうなずいた。
「うん、大きくなったんだね」
「な、何するんですか」
いきなり乱暴に頭を撫でられて譲は思わず見を引いた。
「何ですか、急に・・・」
「え? ううん、えへへ。ごめんごめん」
ごめんといいつつ望美の顔から笑みが消えることはなかった。
それから話題が変わってしまったので、譲の発言に対する突っ込みはそれ以上なかった。
ほっとしながらもどこか残念がる自分もいて、譲は自分のことながら驚いた。
――――俺は、一体何を望んでいるのか・・・。
「譲くん?」
「え?」
名を呼ばれて顔を上げると、望美が不思議そうにこちらを見つめていた。
「すみません。何ですか?」
「うん、そろそろ戻ろうかなって。もう結構遅い時間だから」
「あ、そうですね」
時計を見ると、いつの間にか日付が変わっていた。それほど話した気はしないのだが、楽しい時間というものはあっという間に過ぎてしまう。
「今日はゆっくり話せて良かった。やっぱり譲くんは譲くんだね」
「俺も、楽しかったです。先輩、大丈夫ですか?」
「え? 何が?」
「何がって。帰りのことです。また危ないことをするんでしょう? 怪我でもしたら・・・」
「ああ、そのこと」
望美は誇らしげに胸を張った。
「大丈夫。落っこちたりしないよ」
「本当ですか? 本当に大丈夫ですね?」
「もう、心配性なんだから」
何度も念を押す幼馴染に、望美は苦笑を禁じえない。
心配してくれるのはありがたいが、そこまで心配されては信頼されていないのかと思ってしまう。
譲がそんなつもりではないのは百も承知なのだが。
望美はにっこり笑うと、軽くベッドから飛び下りて見せた。
「どう? 大丈夫でしょ・・・きゃあっ!」
「先輩!」
軽やかに飛んで見せたものの、着地でバランスを崩した望美に、すかさず譲が手を出した。
思いのほか軽い衝撃の後、予測された彼女の転倒は免れた。
「本当に、言っているそばからあなたという人は・・・」
「ご、ごめんなさい」
平気なことをアピールしようとして、逆に失敗しては世話がない。
今回ばかりは望美も素直に頭を下げた。
ほっと二人が安堵の息をついたのもつかの間。
「!」
思いのほか近くに互いの顔があった。何秒か固まった後、
「っ、すみません!」
譲はあわてて身を離した。
とっさの事故とはいえ、何と言うことを。
赤い顔を手で覆いながら、今までに経験したことのない鼓動の速さに眩暈すらする。
目の前が真っ白で何も見えないが、譲はとにかく思いつく限りの謝罪の言葉を並べた。
「すみません、本当に。俺、とっさに・・・変な気持ちはなかったんです」
慌てふためく譲とは対照的に、望美は落ち着いたものだった。
照れる幼馴染を、顔が赤くなっててかわいいなぁと思えるだけの余裕がある。
譲の謝罪にいちいち首を振りながら、望美は先ほどの彼の腕の感触を思い出した。
いつの間にか自分よりも逞しく成長している。
昔は自分の後ろをついてくるような子だったのに、今は自分の前に立ってあらゆる危険から守ろうとしてくれている。
望美は最近になってようやくそのことに気づいた。
「本当に、大きくなったんだね」
それを何でもないことのようにやってのけるのが凄いというか、憎いというか。
悔しい思いがないわけではないが、やはり素直に嬉しかった。
混乱する譲は残念ながら、まぶしそうに目を細めて微笑む望美の顔を見ることはできなかった。
「・・・じゃあ、大人しく帰りは玄関から帰るよ」
「あ、お、送ります」
「大丈夫だよ・・・って言っても、今日は自信ないな。ごめん。お言葉に甘えるね」
ようやく落ち着いてきた譲は簡単にその願いを請け負った。
まだ先ほどの名残が、彼の思考力を奪ったのだろう。
このまま玄関から彼女を出すのは、彼女の身には危険は及ばない。
だが、何故帰ったはずの彼女が譲の部屋にいたのか、それもこんな真夜中に。
それを同居人に説明するのが非常に面倒くさいということに、譲は気がつかなかった。
それに、表から堂々と帰ればせっかく望美がこっそりやってきたのも無駄になってしまう。
諸々を忘れ去って、譲は呪文のように「平常心、平常心」と繰り返している。
その行為自体、平常ではないのだが、精一杯平静を装おうと彼は本気だ。
どこまで気づいているのやら、望美はそんな譲の様子を、ただただ微笑ましそうに眺めていた。