少しずつ、少しずつ






「ヒカリさん!」


 歌劇場の廊下で憧れのヒカリさんを見た瞬間、思わず私は駆けだしていた。
 向こうも私に気づいて立ち止まってくれた。


「あら、久しぶりね。今日はこっちの仕事なの?」

「はい。今は朝と夕に通いでカナデ・・・あ、いえ、先生のお世話をして、昼間は今までの衣装部の仕事に戻ったんです」


 歌劇団が楽曲提供を求めて招いた客員の「巴草ソウ」先生。
 その先生のお世話役として私が選ばれ、衣装部よりもお世話係としての仕事が優先されていたのが、少し前のこと。


 世界的に有名な巴草ソウ作曲、ステラ歌劇団を代表する歌い手である淳ヒカリの歌う公演は、千秋楽を終えた今でも再演希望の声が後を絶たない。


 私は舞台袖からちらりと伺うことしかできなかったけれど、心を洗われるような曲と、澄み切って凛とした歌声は、今でも耳に残っている。


 公演の成功に気を良くした上層部が、次の公演の楽曲も是非と請うて、彼はこの街に滞在していた。


「さすがに、これ以上衣装部の仕事を休み続けるわけにはいきませんから。お世話係と衣装部と、半々の生活です」

「でもそれじゃ、あなたはずっと働きづめじゃないの。体を壊したりしてない?」

「大丈夫です。好きでやっていることですから」


 それは本当だった。
 実は、契約の続行が決まった時、お世話係はもう良いという話があったのだ。


 でも、それを了承しなかったのは私。
 私が自らの意思で、お世話係もやりたいと言ったのだ。


「そう? だったら私が口を挟むことじゃないけれど。巴草先生としても大助かりだと思うわ」

「・・・だと、良いんですけど」


 いつも嫌味を言われているので、何とも言えない。
 そりゃ・・・多分、「巴草ソウ」の正体が誰なのか、ということが明らかになってからは、少しは丸くなった気がするけど。


(――――告白、された気がしたんだけどね)


 あの日、彼のコンサートで、懐かしい旋律と共に明かされた先生の秘密。
 そして、想い・・・。
 想いが重なり合って、今までの関係から大きく一歩を踏み出した。


 かと思ったのだが、公私の区別をはっきりさせるため、未だ私は彼――――カナデのことを表では「先生」と呼んでいる。
 そのせいなのか、いまいち恋人同士になった気がしない。
 どころか、カナデとの溝を埋められた気すらしないのだ。


(この先、大丈夫なのかなあ)


 ふと不安に駆られたりもする。


「あら? その目はもしかして、恋している目?」

「え?」


 自分の世界に入りかけていた私は、はっと我に返った。
 目の前には、どこか面白そうに私を眺めるヒカリさんの顔がある。


「そうよね。巴草先生ってお若いし、格好良いものね。あなたが惹かれてしまうのも無理ないと思うわ」

「や! ヒカリさん、あのですね」


 私は慌てふためきながら、焦りながらパクパクと口を動かす。


「確かに世界的に有名なピアニストですし、そりゃ外見だって良いかもしれませんけど、私生活はひどいんですよ。放っておくと部屋は散らかり放題、食事はラーメンだけ、平気で幾夜も徹夜しちゃうし」

「・・・ほう。お前よくも、本人の目の前でそんなこと言えたな」

「っ!?」


 聞こえてはならない声がして、慌てて振り返ると、そこには予想通りの人物が、予想通り呆れた表情で腕を組んでいた。


「か、カナ・・・い、いえ、先生。いらしてたんですか」


 劇場に来るだなんて、朝は言っていなかったはずだ。
 まさかここにいるとは思っていなかったので、私の声は少し上ずっていた。
 そんな私を見、先生・・・いや、カナデは意地悪く笑った。


「ああ、打ち合わせでね。久々に世話役の仕事ぶりでも見に行こうかと思っていたら、こんなところで人の陰口か」

「べ、別に陰口じゃないですよ。本当のことを言っただけじゃないですか。先生が衣食住に関して無頓着なのは事実でしょう」

「だから、お前がいるんだろ。雇い主は俺だぞ。そろそろ口のきき方に気をつけたらどうだ」

「何を偉そうに。昨日ピアノの前に座ったまま寝ていた人に、何を言われても説得力ありませんよ」

「お前・・・」


 カナデは何か言いかけたが、その先はヒカリさんの笑い声に掻き消されてしまった。


「ひ、ヒカリさん!?」


 急に笑い出したので、カナデと私は揃って口を閉ざして目を見開いた。
 こんなに豪勢に笑うヒカリさんは、初めてかもしれない。
 お腹を抱えてひとしきり笑い終えて、ようやくヒカリさんは顔を上げた。


「ご、ごめんなさいね。でも、そういうことだったのね」

「え?」


 驚く声が重なってしまった。
 それが可笑しかったのか、さらにヒカリさんは笑い声を立てた。


「結構お似合いじゃないかしら、二人とも」

「!」


 ヒカリさんの言葉にびっくりして、その瞬間、顔が真っ赤に染まっていったのが、自分でも分かった。
 隣では、これまた全く一緒の反応をしているカナデ。
 くすりと笑ったヒカリさんに、最初に立ち直ったのは私ではなく、カナデだった。


「別に構わないだろう。俺たちが恋人同士だって」

「か、カナデ! そんなはっきり・・・」


 恥ずかしくて、その先の言葉が見つからなかった。
 やっぱりカナデは、私のことが好きで、私たちはそういう関係で。
 改めてカナデの口から聞いて、実感がわいてきた。
 いつもと同じように見えて、やっぱりカナデは今までとは違っていた。


「俺はお前が好きだと言ったんだ。その気持ちに変わりはない。変わるわけがない」


 はっきりと、そう言い切った。


「何だよ。お前は違うのか?」


 問われて、私もはっきり首を振る。


「私だって、カナデのこと、好きだよ」

「あ・・・ああ」


 自分ははっきり私のことを好きだと言ったくせに、私がカナデを好きだというと、カナデは顔を赤くしながら視線を反らせてしまった。
 それを見ていると、伝線したようにいたたまれなさに包まれる。


 と。


「コホン」


 控えめな咳払いが、沈黙を破った。


「っ! すみません! ヒカリさんの目の前でっ!」

「いえ、良いの。でも、何か目に毒っぽかったから。あとは二人でゆっくりどうぞ」


 また今度、ゆっくり話を聞かせてね、と言ってヒカリさんは練習に戻っていってしまった。
 うううっ、今更だけど、やっぱり恥ずかしい。


「お前な。いちいち赤面すんじゃねえよ」

「何よ。カナデだって顔真っ赤じゃない」

「うるせーよ」


 巴草先生が実は幼馴染のカナデだったと分かってから、今まで以上に言葉に遠慮がなくなったけれど、恋人同士の甘い雰囲気とはちょっと・・・・・・ううん、結構違う。
 顔を合わせては、こんな感じで言い合ったりしている。


 ただ。


「ほら、そろそろ昼休みだろ」


 不意にカナデが手を差し伸べてきた。


「う・・・うん」


 その手に、私は自分の手を重ねる。
 長い指と少し熱い体温が、私の手を包み込む。
 昔はよくこうして手をつないで、色々な場所へと遊びに行ったものだ。
 でも、今は意味が違う。


「だから、いちいち赤面するなって。こっちまで、伝染するだろ」

「仕方ないでしょ。だって、こんな風になるなんて思わなかったんだから」


 ひどい言葉をつき付けられて嫌いになったけれど、元々はずっと好きだったカナデ。
 心の傷を抱えつつも、どうしようもなくて好きになってしまった巴草先生。


 好きになった二人が実は同一人物で、しかも思いが通じ合った。
 これはまさしくもう、幸せ。
 その一言に尽きる。


「まあ良い。慣れないなら慣れるまでだ。時間はたくさんあるんだからな」

「カナデ、外国には戻らないの? ずっと日本にいる?」


 私の顔がそんなに不安そうだったのか、カナデは柔らかく笑って、絡めている指に力を込めた。


「日本にいたっていなくたって、お前のそばにいることに変わりはねえよ。今更誰が手放すか。手放せるわけ、ないだろ」


 お互い思い合っていたのに、擦れ違いがあって別れてしまった私たち。
 でもやっぱり二人の道は交差していて、こうしてようやく結ばれたのだ。


「少しずつ、別れてた溝を埋めていこう」

「うん」


 まだまだ私たちは不器用で、なかなか思うように前には進めないのかも知れない。
 でも、少しずつ、少しずつ、別れていた時間を取り戻していければ良いと思う。


「ほら、ぐずぐずするな。早くしないと昼飯を食いっぱぐれるぞ」

「分かったよ。行こう」


 二人しかいない廊下。
 長々と伸びるその先の陽だまりへ、私たちは手をつないだまま歩きだした。







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