立ち往生、そして・・・
本当に、どうしたら良いんだろう・・・。
はあ、と私の口からため息が出た。
夕暮れの屋上には、生徒の姿はない。
私の隣には無造作に置かれたヴァイオリンがある。
今の私の最大の悩みの原因。
「どうしてうまくいかないのかな・・・」
最近、楽譜練習も解釈練習も怠っていないのに、なかなか上達が見られないでいた。
それに比べて他のコンクール出場者は、順調に結果を伸ばしているのだ。もともとが違うとはいえ、それが私の焦りに拍車をかけている。
自分だけが取り残されていく感じ。
ただでさえ普通科で参加しているものだから、音楽科の生徒からも普通科の生徒からも注目されてしまって・・・。
応援してもらえるのはとても嬉しい。
だからこそ、結果を出せない自分が、とてももどかしかった。
うまくなるためには練習しかない。
そう思うのに、どうしても今は弾きたい気分にはなれなかった。それが自分の弱さだと分かるから、さらに気持ちが沈んでいく。
「どうしてこんなに駄目なんだろう・・・」
もう、どうしたら良いのか分からなかった。
頭の中がぐちゃぐちゃ。
できることなら、このままひっそりと消えてしまいたい。
「・・・馬鹿みたい」
そんなことができるはずないのに。
私はぐずり始めた鼻をすすった。あふれる涙をぬぐう。
思い切り泣いて、すっきりしよう。
そしたらまた、ヴァイオリンを弾きたくなるだろうし。
幸い、暮れなずむ校舎に、人影はない。誰にも見られる心配はないのだ。
「鼻が赤くなっているんだろうな・・・」
ひどくどうでも良いことが思い浮かんだ。
涙と一緒に、私の中でわだかまっていたものが解けていっているのかもしれない。
少しずつ、ようやく心が落ち着いてきた。
私はハンカチで涙を拭いた。
「・・・うん!」
ひとつうなずくと私は立ち上がった。
ちょっと元気になった。
もう少しがんばろう。
そうしたら、良いこともあるかもしれないし。
・・・というのは、勝手な思い込みなんだけど。
私はヴァイオリンに手を伸ばした。
そのとき、屋上へと続く階段から、誰かが上がってきた。
「こんなところにいたんだね、日野さん。捜したよ」
「お、王崎先輩!?」
私は思わず大きな声を出してしまった。
だって、今日は先輩が来る日ではないし、先輩が用のあるのは音楽室であって、屋上で見かけたことなどほとんどない。
ここにいるのが不自然だったから。
凍りついた私の顔を見て、急に先輩の顔が曇った。
「日野さん、どうしたの? その顔・・・」
「え? あっ・・・」
そういえば、泣いた直後だからヒドイ顔していたんだった。
あわてて顔を背けた私に、先輩が近づいてくる。
「泣いて、いたの?」
先輩の声はいつもの穏やかなものではなく、低く、どこか硬質だ。
私は顔が上げられなかった。
あきれられた。
きっと、情けない奴だと思われた。
ぎゅっと目をつぶる。いつも励ましてもらっている先輩に、合わせる顔がなかった。
「日野さん!」
「!」
呼ばれてはっとした私は、予想外に近くにいる先輩に言葉を失った。
・・・抱きしめられている?
自分を包む暖かさが、心の中まで染み入ってくる。
私は恐る恐る顔を上げた。
「先輩?」
「ごめんね」
なぜか先輩が謝る。
「どうして先輩が謝るんですか?」
「だって、日野さんが悩んでいることに全然気づいてあげられなかったから」
先輩は優しく私の頭をなでる。
「考えてみたら当然だよね。不安に思わない人なんていないはずなんだ。特にきみはいろんな意味で注目を集めているから」
「先輩、そんな・・・」
「もっとおれが早く気づいていれば、きみにこんな悲しい思いはさせなかったのに。ごめんね」
先輩は怒っているかもしれない、なんて思った自分が馬鹿だった。
先輩はそんな人ではない。
そうだ。先輩は、いつだって優しかった。
「違います。先輩は全然悪くありません。私がもっとしっかりしていれば・・・」
「日野さん」
あわてて反論する私の言葉を、珍しく強い口調で先輩が止めた。
知らないうちに、先輩の目にじっとひきつけられる。
「おれの前では我慢しないで。一人で無理しなくて良いんだよ。できることは少ないかもしれないけど、きみを一人で泣かせることはしないから」
そういうと先輩は、ぽんぽんと私の背中を軽く叩いた。
それがあまりにも優しかったから。
「っ・・・」
枯れたはずの涙がまたこみ上げてきた。
「大丈夫。おれがいるよ」
その言葉がとどめだった。
泣き顔はヒドイから、人前では泣きたくないと思っていたはずなのに、そんなことはもう頭になかった。
私は先輩の上着をつかむと思い切り泣いた。
私がしゃくりあげるたびに、先輩は同じ言葉を繰り返す。
「大丈夫だよ」
不思議だった。
その言葉がある限り、私は誰にも、何物にも負ける気がしなかった。
「火原君に感謝しなきゃいけないな」
ようやく涙の引いた私に、先輩はそんなことを呟いた。
「どうしてですか?」
「今日は彼に呼ばれてきたんだよ。少しコンクールについてアドバイスがほしいって。彼、最近は練習に熱を入れているんだよ。どうしてだかわかる?」
「?」
ふるふると首を振ると、ふふ、先輩は声を立てて笑った。
「いっしょうけんめい練習しているきみを見ていたら、がんばらなきゃって思ったんだって」
「え?」
私はまさか、と先輩を見返した。
しかし、先輩はどこまでも穏やかな口調で、そっと私を包み込む。
「きみががんばっているのは、みんな知っているよ。調子が悪いときは、誰でもあるから。でも、がんばった分だけ、ヴァイオリンはきみに応えてくれるよ」
そう言うと、そっと私の頭をなでてくれる。先輩の手は、とてもあたたかくて、安心する。
「ありがとうございます」
私は自分でも意識しないうちに頭を下げると、微笑みを返していた。
・・・先輩。
いつも私に笑顔と勇気をくれて、私をあたたかい気持ちにさせてくれる。
――――とても、大切な人。
この日を境に、私の中で先輩の存在が大きく変わった。