届けたい想い  3






 相変わらず、ハイカラヤはいつ来ても賑わっている。


「こんにちは」


 一日の仕事が終わって、夕方ハイカラヤを訪れるのがいつの間にか当たり前のことになっていた。
 梓が顔を出すと、マスターや店員をはじめ、馴染みの常連客が気づいて温かく梓を迎えてくれる。


「あら、今日はいつもより遅かったのね」

「はい、遠出したので戻ってくるのが遅くなったんです」

「そうなの。村雨がねえ、さっきからちょくちょく店の様子を見に来ているのよ。鬱陶しいから、早く奥へ行ってあげて頂戴」

「鬱陶しくて悪かったな」


 頃合い良く、奥から村雨が出てきた。
 マスターは口をつぐむ真似をしたが、明らかに面白がっている。


「村雨さん、原稿は大丈夫なんですか?」

「ああ、もうほとんどできた」


 このところ、村雨は最新作の執筆を優先して、ハイカラヤの自室にこもっていることが多かった。
 〆切も迫っている上に、どうやら今回の作品にはよほど力を入れているらしく、演説の方は後回しになっていた。
 それほど気合の入った作品ならば、さぞ名作に違いない、と梓は出来上がりを心待ちにしている。


 夕方のハイカラヤには、お勤め帰りの客が続々と集まってきていた。
 既にひと足早く出来上がっている客が、梓に向かって手を振った。


「あれぇ、梓ちゃんだ。久しぶりだね」


 いつか、梓を口説こうとした青年だ。
 声が掛かった瞬間、村雨の目が剣呑に光ったのに気づいたのは、近くにいたマスターくらいだろう。
 青年は懲りずに話しかける。


「良かったら、君も一杯どう? おごるよ」

「いえ、結構です」

「そんなこと言わずにさ〜」


 なおも続けようとした青年の誘いをどう断ろうか。
 ――――ああ、そうか。
 妙案がひらめいた梓は、青年に向かって深々と頭を下げた。


「ごめんなさい。私もう、村雨さんのお手つきなので、お誘いは受けられません」

「またまた、そんなこと言って。村雨先生、言ってたよ。あれは方便だって」

「あのときはそうでしたけど、今は正真正銘お手つきなんです」

「!?」


 その瞬間、青年だけでなく、ハイカラヤの全員が静まり返った。


「え、あれ? 私、何かいけないこと言いましたか?」


 突然の静寂に驚いた梓が助けを求めるように村雨を見ると、何故か彼は深いため息をついていた。


「・・・いや、間違ってはないけどな」


 村雨は、己のしでかしたことの重大さを理解できていない梓の手をとると、強引に奥へ引っ張っていった。
 直後、店内は割れんばかりの歓声と、僅かな嘆きの声で溢れかえった。


 後で散々執拗な取り調べを受けることになるだろうと思うと、村雨の中には何と面倒なという気持ちがないわけではないが、梓に寄ってくる輩が減るなら仕方がないことかもしれない。
 どうせ新作が出版されれば、村雨と梓の仲は公衆に広まることになるのだから、まあ、それはそれで良いだろう。
 問題は、何の疑念もなく無邪気に可愛いことをしでかした恋人の方だ。


「何か、凄い騒ぎになっているんですけど・・・」

「勝手に騒がせておけば良い」


 それよりも、と村雨は梓を抱き寄せる。
 妖しげに艶めく彼の双眸を見た梓は、今彼が何を望んでいるかが分かってしまって、慌てふためく。


「む、村雨さん・・・! 下に、皆さんいらっしゃるのに」

「それが? 別に隠すこともなかろう。何て言ったって、あんたは俺のお手つきなんだから」

「あっ」


 見る見るうちに、梓の顔が真っ赤になっていく。
 ようやく先ほどの一言が爆弾発言であったことに気がついたようだ。
 とはいえ、今頃気がついても遅いのだが。


 普段は肩に力が入り過ぎているくらい真面目なくせに、時々どうしようもなく可愛いことをしでかすこの恋人が、村雨には愛おしくてたまらない。
 それは日増しに強くなっており、いつか公衆の面前で理性の箍が外れる日も来るかもしれない、とさえ思う。


「・・・ま、それも仕方ないな」


 他でもない、彼女相手ならば。
 そっと笑うと、村雨は動揺の激しい梓に止めの一言を囁く。


「今すぐに、あんたを抱きたい」

「あ、あの。でも・・・」

「嫌か?」


 わざとそんなふうに問いかける。
 選択肢を与えておきながら、村雨には、梓の出す答えが分かっていた。


「・・・っ、嫌じゃ、ないです・・・」


 少し困ったように、けれど迷いなどなく、梓は村雨に手を伸ばす。
 恥ずかしがりながらも、拒むという選択肢は彼女にない。


「・・・ん、良い子だ」


 満足げにうなずいて、村雨は梓の唇を奪う。
 今日も、朝まで彼女を離せないのだろう。


 まっすぐ好意をぶつけてくる梓が、新作を読んだらどう思うのか、とふと村雨は考えた。
 情に脆いところがある彼女のことだから、やはり感激したりするだろうか。
 喜んでくれるだろうか。


 そこまで考えたところで、村雨の口元に苦笑いが浮かんだ。
 気がつくと、やはり梓一色になっていると。
 ならば素直に彼女に溺れるべきだろう。


「村雨さん・・・? どうしたんですか?」

「いや。何でもないよ」


 不思議そうに首を傾げる梓を、村雨は優しく甘く、捕えて行った。




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