月夜の散歩




 座敷を出たものの、良く当てのない紗依は、何とはなしに中庭に下りた。
 城の中からでも美しいと思った玉砂利が、歩くたびに耳に優しい音を奏でる。

「ああ、誰かと思えば、紗依であったか」

「え?」

 庭木の奥から知った声が聞こえたかと思うと、それに遅れて声の主が現れた。

「棒さん? どうしてこんなところに。お座敷にいたんじゃ・・・」

「いや、少し酔い覚ましに外の風に当たっていたのだ」

 すっとそつなく泰之丞が手を伸ばす。

「もしおぬしもそのつもりなら、少し歩かぬか」

「あ、はい」

 おずおずと紗依は手を握り返した。
 泰之丞の手は想像以上に大きくて、細く長い指に触れていると、それだけで自然と顔が赤くなる。

「ああ、見事な池だ」

「え?」

 急に照れくさくなって、いつの間にかうつむいて歩いていたようだ。
 言われて顔を上げると、すぐ先に石で囲われた池があった。

「わあ、ホントですね」

 紅潮した顔を見られるのが嫌で、紗依は泰之丞の手を離して池に駆け寄る。
 この城の中にはまだ紗依の知らぬ面白いものが、たくさんありそうだ。
 池を見るのは初めてだった。
 ひざをついて覗き込むと、水面に薄く氷の張っているのに気がついた。
 明鏡のように澄んだそこには、大きな月が映っていた。

「凄い・・・。手を伸ばしたら、月をつかめそう」

 うきうきした表情で、紗依は身を乗り出した。
 水面に指を滑らせると、冷たいというより痛みを感じる。
 それほど今日は冷えているのだろう。
 冴え冴えとした空気の中では、より美しく黄金の星が映りこんでいる。

「ほう、これは見事な」

 後ろから遅れてきた泰之丞も、池の月に感嘆のため息をこぼす。

「!」

 紗依は息を呑んだ。
 池には月と、それに寄り添うような泰之丞。
 意図したわけではないだろうが、まるで一幅の掛け軸のようだった。

「? どうしたのだ、紗依?」

「えっ」

 声を掛けられるまでその光景に見とれていたことに、今更ながら気づいた紗依は、再び顔が赤くなるのを感じた。

「な、何でもありません」

 急いで立ち上がろうとして、

「きゃあっ」

 思い切り足を滑らせた。
 ぎゅっと目を閉じて、来るべき水の冷たさに心を決めたのだが、そのときはいつまで経っても来なかった。

「やれやれ。見かけによらず、ずいぶんあわてものなのだな」

「え?」

 どれをどうしたら、こんな状況になるのだろう。
 紗依は池に落ちる代わりに、泰之丞の腕の中にいた。

「あの、もう大丈夫ですから」

 そう言って離れようとするのだが、

「ならぬ。このように冷えてしまって・・・」

「ぼ、棒さん!?」

 反対に顔を近づけられ、果てには冷たく、赤くなった指先に口付けされた。

「!」

「ああ、おぬしの手は、氷よりも冷たい」

 そっと微笑むその顔に、何度心乱されたことか。
 不意に言いようのない怒りが生まれて、紗依は顔を背けた。

「棒さんは、そうやっていつも女の人に優しくするんですね」

「え?」

「だって、ずいぶん慣れた様子ですもの。そんな風に優しくしていると、女の人だって誤解しちゃいます」

「誤解?」

 紗依の言葉の意味が分からなかったのだろう。
 はじめ泰之丞はいぶかしげな表情を浮かべた。
 だがすぐに。

「くっ・・・ははははは!」

 大笑いし始めた。

「なっ・・・どうして笑うんですか」

「いや、何。ふふふ。そうか」

 戸惑う紗依を置き去りにして笑い続ける泰之丞は、一人で何度もうなずいた。

「もう、一体何なんですか?」

 わけの分からぬ紗依にしてみれば、笑われているということに納得できずに、口を尖らせる。
 だが、それすらも泰之丞は嬉しそうに笑う。

「もう、棒さん!」

「ふふふ・・・すまぬ。女子の悋気がこれほど嬉しく思ったことはないのでな」

 ぷう、と膨らんだ頬に手を添えると、美貌の侍はまっすぐ紗依を見つめた。
 どきりと紗依の胸が高鳴る。

「そうやって拙者を責めるのは、拙者を慕っている証拠だと思って良いのだろう?」

「え・・・?」

 いきなりそんなことを言われて、紗依は言葉に詰まった。
 それを予想していたのか、泰之丞はずいと顔を近づける。

「否定せぬな。良いことだ」

 泰之丞の目がすっと細められたかと思うと、耳元に心地良い低音が吹き込まれる。

「もし否定する言葉が発せられようとしたら、この唇でおぬしのそれを塞いでやろうと思っていた」

「――――!!」

 長い指が紗依の唇をなぞる。
 その感触に、紗依は目の前が真っ白になった。

「あっ・・・あの、棒さん・・・」

 何を言おうと思ったのか忘れるくらいだ。何も考えられない。何をして良いか分からない。
 混乱の極みにある紗依に気がついた泰之丞は、あっさりと身を引いた。

「これは・・・拙者としたことが、少し急ぎすぎた。すまぬ」

「か、からかうのも、いい加減にしてくださいね!」

 語調がきついのは、何とか冷静になろうとしているせいだ。

「分かった分かった。これ以上はせぬから」

 両手を挙げて見せる泰之丞には、顔を真っ赤にした紗依が睨んでくることさえいとおしかった。
 何故、ここまで心を奪われてしまったのか。
 ただ幸せだけが胸に浮かぶ。

「さあ、座敷へ戻ろう。そろそろ冷えてきた」

「・・・はい」

 泰之丞は冷たい紗依の手を握り締めると、優しく彼女を導いた。






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