海の見える家で




「レイン? ちょっと良いかしら」

 アンジェリークは住み始めたばかりの家の、レインの部屋のドアをノックする。

 世界が平和を取り戻した後、アンジェリークは女王への道ではなく、アルカディアに残ってレインとの新しい生活を始めていた。
 ファリアン郊外の新居は、レインの父であり、アーティファクト財団の創始者でもあった人物の、かつての別荘を改築したものだ。
 どうやらこれは、レインが相続した財産だったらしい。
 色々と探してみたものの、結局はここが一番便利だということで、長年放置されていたものを住める状態にしたのだ。

「レイン?」

 何度か木製のドアを叩いてみたものの、一向に中からの応答がない。
 夕食を終えて、「調べものがあるから」と言って部屋に引きこもっていったのが二時間前。
 そろそろ甘いものがほしくなる頃だろうと、レインの大好きなアップルパイとミントティーをトレイに載せてきたアンジェリークは、困ったように首をかしげた。
 外に出た気配はなかったので、きっと部屋の中にいるのだろう。
にもかかわらず返事がないということは。
 考えられる理由は一つしかなかった。

「また研究の途中で居眠りをしているのね」

 アンジェリークはそっと音を立てないようにノブを回して、やすやすと部屋の中に侵入する。
 熱中すると平気で寝食を忘れるレインは、たびたび机に突っ伏したままや、ちゃんと着替えをせずにベッドで寝ていることがあった。
 一緒に暮らすことになったのだから、こういうところは直してあげなきゃ、と意気込むアンジェリークは、予想通り分厚い論文集を枕元に放り出し、布団もかけずに寝ているレインにそっとため息をついた。

「もう、レインたら」

 トレイを近くのテーブルに置き、困ったように彼を見下ろす。
 こんなに近くに来ているというのに、レインは起きる気配が全くない。
 それだけ深い眠りについているということだろう。
 安らかな寝息が聞こえてくる。

「――――あら?」

 とりあえず何かかけてあげないと、と布団を引っ張っていたアンジェリークは、ふと手を止めた。
 眼下には、安心しきって眠っているレイン。
 その寝顔を見ているうちに、ふとある疑問が浮かんできた。

「素敵な旦那さんで、うらやましいわ」

 それは、近所に住む年配の婦人にそういわれたときに浮かんできた疑問と同じものだった。

 ――――本当に、レインは私のものなの?

 布団をかけるはずだった手が、赤い髪の毛に触れる。
 さらさらした感触が心地良くて、額にかかる彼の前髪をそっと掻き揚げた。

「・・・・・・」

 それから白い指は彼の額、頬、そして唇に至る。
 一つ一つ確認するように、幾度か指は同じところを行き来した。
 そうして確かめ終わると、再びアンジェリークの手は動いていった。

「レイン・・・」

 自分の触れているものは、全部いとおしい。
 心からそう思えた。
 今度は顎から首へと指先がすべる。
 綺麗な鎖骨だなあなどと、のんきなことも頭に浮かんだ。
 いつもはジャケットを着ていて隠れている腕も、今はむき出しの状態だ。
 気がつかなかったが、こうして実際に触れてみると、意外と筋肉質なのだと分かる。

「あ・・・」

 レインの体をなぞっていた手が、彼の腹筋に触れたところでぴたりと止まった。

「私・・・!」

 一体何をやっているのか。
 そのことに気がついたアンジェリークは、急に自分のやっていたことが恥ずかしくなり、彼に背を向けると両手で顔を押さえた。
 いくら彼を確かめたかったのだとはいえ、これでは立派な変質者だ。
 このときばかりは、レインが気持ちよく寝入っていてくれたことに感謝だ。

「良かった・・・」

「何がだ?」

「!!」

 ほっと胸をなでおろした一瞬の隙に、アンジェリークは後ろから伸びてきた腕に抱きしめられた。
 心臓が口から出そうとは、今のことを言うに違いない。
 激しく早鐘を打つ鼓動とは裏腹に、凍り付いてしまって身動きが出来ない彼女の耳に、今まで眠っていたはずの人物の声がはっきり届いた。

「もう良いのか? アンジェ」

「れ、レイン!? 起きていたの?」

 いつから? その疑問を口にする前に、レインの長い指がアンジェリークの水色の髪の毛を梳く。

「レイン・・・?」

 戸惑うアンジェリークを差し置いて、指は彼女の額、頬、そして唇を撫でていく。
 まるで、先ほどアンジェリークがやっていたことを、再現しているようだった。

「んっ・・・」

 何度も撫でられているうちに、だんだんと戸惑いを心地良さが追い抜いていく。
 思わず甘い吐息をつきレインを振り仰ぐと、待ち構えていたように唇を重ねられた。
 ちゅっ、とわざと音を立てられたので、実際の行為より音のほうで驚いた。

「は・・・レイン・・・」

「アンジェ、ダメだ・・・まだ・・・」

 呼吸を整える間も惜しんで、レインはアンジェリークの唇を奪う。
 ただ触れるだけのキスではない。
 相手の存在を求めて、深く深くつながろうと舌を絡める。

「ふぁ・・・んんっ!」

 息つく暇などない。
 息を大きく吸い込もうとして口を開くと、その隙を突いたレインが口内へ侵入してくる。
 どうしようもなくて、アンジェリークはレインの思うままに身を任せていた。
 ぎゅっと痛いくらいに腕を掴まれているのに、それが嬉しくてたまらない。
 そんな風に思ってしまう自分は、どこかおかしいのだろうか。

「はあ・・・」

 ようやく解放されたときには、アンジェリークはぐったりと完全にレインにもたれかかっていた。

「もう・・・レインたら・・・」

 何だか彼の思い通りになってしまうのが悔しくて、少しだけ恨めしそうな視線を送ると、レインは心外そうに目を見開いた。

「最初に手を出したのはそっちだろう?」

「うっ・・・」

 痛いところを突かれてしまい、アンジェリークは言葉を詰まらせた。
 本をただせば、それはそうなのだが、しかし、それにしたって・・・。
 アンジェリークは反論しようと口を開きかけたが、何を言ってもばっさり切られるのは目に見えている。

「お前でも、オレをほしいと思うときがあるのか?」

「え?」

 ゆっくり頭をあげると、真剣なまなざしがアンジェリークを見下ろしていた。
 頬が赤く染まっている。

「わ、私、レインをほしがっていたの・・・?」

「違うのか?」

「あ・・・」

 そういえば、と、先ほど浮かんだ疑問が不意に蘇る。

「本当に、レインは私のものなの?」

「は?」

 頭に思い浮かべただけだと思っていたのに、どうやら知らないうちに口に出していたらしい。
 極限まで開かれたレインの目を見ながら、改めて自分がとんでもないことを口走ってしまったと、アンジェリークは顔を真っ赤にした。

「ご、ごめんなさい! 私、何てこと・・・」

「アンジェ!」

 レインは突然、アンジェリークの体をぎゅっと抱きしめた。

「な、何? どうしたの?」

「お前がそんなことで悩んでいたなんて」

「レイン?」

 何故か彼は嬉しそうにはにかんでいる。
 思う存分抱きしめられているのだが、アンジェリークの心の中はわけが分からず混乱するしかない。

「レインたら・・・もうっ、そんなに笑うことないじゃない」

「だって、仕方ないだろう? 嬉しいんだから」

「え?」

 嬉しい?

 レインを喜ばせることなど言っただろうか。
 アンジェリークが首をかしげている間にも、レインの手が彼女の顎をそっと持ち上げた。

「大丈夫だ。心配しなくても、オレはお前のものだ」

「!」

 額に口付けされて、ほしかった言葉をもらえて、蕩けそうにレインが微笑んでいる。
 他に何を言えば良いのだろう。

「あの・・・あのね・・・」

 何か言わねばと思うのだが、言葉が見つからない。
 そんなアンジェリークをほほえましそうに眺めていたレインは、彼女の指に自分のそれを絡める。

「お前は?」

「え?」

「お前はどうなんだ? お前はオレのものなのか?」

「!」

 アンジェリークは悩むまでもなかった。

「勿論!」

 力強くうなずくと、レインは安堵のために大きく息を吐き出した。

「良かった」

「レイン・・・」

 自然と二人の顔が重なる。

「幸せよ。大好き」

「オレも・・・。今度は寝込みを襲われないように気をつけるよ」

「もう! レインたら!」

 ぷう、と頬を膨らませるアンジェリークがいとおしくて仕方ないのだろう。
 レインはこみ上げる笑みをそのまま表情に浮かべ、それを見たアンジェリークは照れながらも、やっぱり同じように惚けたように微笑んだ。








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