若女将のお仕事



「ね、どう?」

 私は緊張した面持ちで、目の前の彼からの返事をじっと待っている。
 餡を牛皮で覆った一口大の生菓子を口に含み、目をつぶってじっくりと顎を動かしていた彼は、やがてゆっくりと目を開けた。
 緊張の瞬間。
 空気が凍りつくって、こういう状況を言うのかな。
 穴が開きそうなくらい彼の目をじーっと見ていると、

「ふふ」

 彼は私の緊迫した気持ちを打ち砕くように、とろけるような笑みを浮かべた。

「うん、良いんじゃないか」

「本当? 良かった」

 私はほっと息をついた。
 今度お店で出す、新しいお菓子の試食をお願いしたのは良いけれど、こんなに緊張するとは思わなかった。
 老舗の和菓子屋さんに育って、小さい頃から和菓子に親しんでいる彼から太鼓判を押されたのだ。
 このお菓子は早速お店に並べてみようと思う。

「店のこと、慣れてきたみたいだね。若女将が板についてきた感じがするよ」

「そ、そうかな?」

 彼にそう言ってもらえると嬉しい。
 これまで頑張ってきたのが報われた感じ。
 彼のお嫁さんとしてふさわしくなってきたってことだよね。
 彼は私を引き寄せると、ぎゅっと肩を抱いた。
 間近に端正な顔があって、何度見てもどきりとさせられる。
 引き寄せられるように彼の顔から目が放せない。

「あれ」

 ふと目を引かれるものがあって、私は手を伸ばした。

「何?」

「ううん、ふふ。口のところ、粉がついている」

 うっすらだけど、先ほどのお菓子の白い粉が残っている。
 手を伸ばしたのはそれをぬぐおうとしたからなんだけど、彼の口の端に届く前に、あっさり掴まれてしまった。

「え?」

 もう片方の手首も、いつの間にか捕らわれている。
 首を傾げて彼を見上げると、相変わらずの笑顔があった。

「粉、取ってくれるんだろう?」

「でも、手・・・」

「ここままでも取れるじゃないか」

 ・・・・・・えっと。
 もしかして、という思いが私の顔を赤く染めた。
 まさかと思って、私は曖昧な笑みを浮かべる。

「えっと・・・どうやって?」

「分かっているくせに」

 彼の顔がすっと近づいた。
 あ、やっぱり。
 そういうこと・・・。

「・・・もう、しょうがないな」

 口ではそう言いながらも、全然嫌な感じはない。
 恥ずかしいけれど、嬉しい恥ずかしさというか。
 私は少し体を伸ばして、彼の口の端に唇を寄せた。

「取れた?」

 そう聞いてくる彼は余裕があるように見えて、どきどきして仕方ない私には、それが何だか癪に障った。

「全然! こんなところにもつけちゃって!」

「え?」

 私は勢い良く彼の唇に自分のそれを押し付けた。
 彼が息を飲んだのが分かる。
 ふふ。びっくりしてる。
 急速に心が静まっていくのが分かった。
 不思議。
 やっぱ好きな人と愛のあるキスするって良いよね。
 幸せな気持ちになれる。
 私はそれだけで十分だった。

「ふうん? 今日はずいぶん積極的だね?」

 彼は私の手を離すと、かわりにたくましい腕の中に私を収めた。
 彼の腕の中は温か過ぎて、すべてを彼に委ねてしまいたくなるくらい心地良い。

「オレがいない間、寂しかった?」

 耳元でささやかれる穏やかな声に、私はうなずいていた。
 猫にマタタビみたいなもので、この腕の中では思考が麻痺したみたいに何も考えられなくなる。

「ああ・・・君だって人のことは言えないな」

 急に神妙な面持ちになって、彼は私を見下ろす。
 何? どうしたの?
 不安な顔で見返すと、額がくっつきそうな距離で甘く呟く。

「ほら、ここに粉がついているよ」

「えっ、どこ・・・」

 私の言葉は途中で遮られた。

「!」

 唇にやわらかい感触。
 目の前にはこれ以上ないくらいの距離に彼の整った顔がある。
 びっくりしている私に構うことなく、彼の舌がゆっくりと私の唇をなぞっていく。
 たまにからかうようにちゅっと軽く吸われて、さらに驚かされる。
 うわぁ、ダメだ。
 幸せすぎる。
 しばらくそうしてから、やっと顔が離れた。

「ずるいよ、ますます好きになっちゃった」

「それはオレもだよ」

 もう一度キスしようとしたとき・・・。

「ち、千鶴! かくまってくれ!!」

 ばたーんと激しくドアを開けて、血相を変えたお父さんが飛び込んできた。

「と、父さん!? 何しに来たんだよ!」

 いいところを邪魔されたので、彼の口調は自然と険がある。
 だけど、お父さんは慣れっこなのか、構わずずかずか部屋に入ってくると、ベッドの下にもぐりこもうとしている。

「いや、緊急事態なんだって! いいかい? 杏子さんが来てもここにはいないって・・・」

「はあ?」

 私たちが首をかしげたときだった。

「ジョー・・・」

 地の底から這い出てきたような声が聞こえて、ドアにいっせいに視線が向いた。
 声の主と思われるその人は、ゆっくりと入ってくるなり、お父さんの襟首を乱暴に掴んだ。

「き、杏子さん・・・? どうしたの?」

「いいえ、何でもありませんわ。これは夫婦の問題ですもの。ね、あなた、あちらでゆっくりお話しましょ?」

 そう言って杏子さんはお父さんを引きずっていってしまった。

「千鶴! 助けて! 父さん殺されて・・・」

 お父さんの悲痛な叫びは、むなしく響きながら遠ざかっていく。
 さようなら、お父さん。
 お父さんのことは一生忘れません。

「いや、死んだわけじゃないから」

「あ、ごめん、つい」

「多分、殺そうと思っても、簡単には死なないと思うけどね」

 侵入者に雰囲気をぶち壊されてしまって、さっきのような甘い空気はすっかり消え飛んでしまった。
 いい雰囲気だったのに、お父さんのバカ。
 それは彼も同じだったようだ。

「・・・とりあえず、この部屋に鍵をつけようか」

「そうだね」

 そういえば、前にも侵入されて驚いたことがあったもんね。
 この家にいる限り、こういう事態を乗り切っていかないといけないんだろうな。
 でも、私は負けない。
 彼とラブラブ生活を送るために、どんな障害も切り抜けてみせる!

「法子・・・やっぱり君は最高だ」

「私、あなたのために頑張る!」

 きっと私たちの間を引き裂けるものは何もない。
 感極まった私たちはひしと抱き合った。






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