罠の中




「きゃっ!」


 今日は朝から晴れていた。
 一片の雲もなかったはず。
 たまたまニュースを見ずに家を出てしまったために、忘れ物をしているという意識は全くなかった。
 ――――その結果が、これだ。


「いきなり雨が降ってくるなんて・・・!」


 しかも、降り始めの小雨というわけもなく、バケツをひっくり返したような勢いの雨が突然襲って来たのだ。
 下校途中の公道で、どうすることもできないまま、あっという間に全身ずぶ濡れの状態になる。


「これはいかんな。沙弥、ここからなら俺の部屋のほうが近い。走るぞ」

「は・・・はい!」


 一緒に歩いていた響さんも、額から頬にかけて幾筋も滴が流れ落ちている。
 私は彼の言葉に何の疑問もなくうなずいて、彼に手をひかれるまま必死に走り続けた。
 雨は初め叩きつけるような勢いだったが、私たちが響さんの住むマンションに着いた時には、少し勢いを失っていた。


 とはいえ、頭から水をかぶった状態が良くなるわけでもない。
 大量の滴を落としながら、私たちは響さんの部屋にたどり着く。


「少し待て。タオルを持ってくる」


 そう言って先に先輩が廊下を歩いていく。
 その間に私はカバンの中身が無事かチェックした。
 自分自身が濡れてしまっていることはもう諦めているが、授業用の携帯端末や学生証等が濡れてしまうのは困る。
 防水加工がされているとはいえ、もしものことがあっては大変だ。


 一つ一つ確認してみて、どれも正常に起動することにほっと胸をなでおろすと、ちょうど響さんがタオルを持ってきてくれたところだった。


「ちょうど良い。おまえはそのままバスルームを使え」

「え?」


 思わず私は言葉に詰まった。
 バスルーム、という単語に反応してしまう。
 だって、それは・・・。
 顔を赤く染めた私に対して、響さんはわずかに眉を寄せる。


「どうしたんだ。早く温まってこい。風邪をひくぞ」

「あ・・・はい。分かりました」


 怪訝な表情をする響さんの顔を見ていられなくて、私は慌ててバスルームに駆け込む。
 響さんは私の体を案じてくれていただけなのに、私ときたら変に意識してしまって、恥ずかしい。


 濡れた制服を丁寧に重ねてからバスルームに入ると、自分を叱責するように頭から熱いお湯をかぶる。
 そこで初めて、体が冷えていたことを知った。
 全身を包み込む温かさが心地良い。
 そう、まるで響さんに抱きしめられている時みたいで・・・。


「!?」


 そこまで考えたところで、私は大きく頭を振る。
 何を考えているのだろう。
 恥ずかしすぎる。


 再び頭からお湯をかぶったのだが、その後、ふとした瞬間に何かしらと響さんを意識してしまって――――
 例えば、そこに置かれているシャンプーを使ったら、彼とお揃いになるとか。
 彼は目が悪いからそこにある備品の数々をちゃんと使えているのかとか。
 そんなことが思い浮かんでは頭からお湯をかぶる、という作業を繰り返していたので、思いの外バスルームに長居してしまった。


「ふう・・・」


 ようやく一息ついた状態で脱衣所に出ると。


「あら・・・?」


 重ねておいたはずの制服がない。
 制服どころではない。
 身に着けていた全てがないのだ。
 その代わり置いてあったのが。


「えっ・・・?」


 真っ白で清潔感のあふれるバスタオルと、響さんのワイシャツだけだった。


「これは・・・」


 色々な意味で驚いた。
 制服はどこにもなくて、衣服が彼の大きめの白いシャツしかないということ。
 そして、それを用意してくれた彼が脱衣所に来たはずなのだが、それに全然気がつかなかったということ。
 ・・・・・・もしかしなくても、これを着ていろ、ということなのだろうけれど。


「っ!」


 今度こそ私の顔は真っ赤に染まった。
 硬直する私に、廊下から声がした。


「出たか」

「あ、は、はい、でも、服が・・・」

「濡れていたから、乾燥機に入れてある。着替えがないから、とりあえずそれを着ていろ」


 何事もないようにそう言い残すと、響さんの足跡は遠ざかっていった。


「・・・・・・」


 響さんは何とも思わないのだろうか。
 本当に言葉通りのことしか考えていないのか。
 判然としなかったものの、これを着なければバスルームを一歩も出られないというのは分かった。


「・・・・・・」


 私は覚悟を決めて、響さんのシャツに腕を通した。


「あの・・・出ました」


 おずおずと彼の部屋を覗き込むと、響さんはベッドの端に座って髪の毛を拭いていた。
 勿論制服のままではなく、私服に着替えている。


「どうした、そんなところにつっ立って。こっちへ来い」

「・・・・・・」


 恥ずかしさにうずくまってしまいそうになりながらも、促されるまま私は響さんの隣に座る。


 ううっ・・・。
 どうしよう。


 本当に彼のシャツ一枚の姿なのだ。
 心もとなくて仕方ない。


 しかも、すぐそばには響さんがいる。
 意識するなというほうがおかしい。


「あ・・・あの、響さん、どうぞ、バスルームを使って下さい」


 うつむいたまま、それだけ言うのが精いっぱいだ。
 顔を上げることなんてできない。
 まともに響さんの顔が見られない。
 そんな私の頭の上から、彼の笑い声が降ってきた。


「俺は良い」

「でも、体が冷えて・・・」

「大丈夫だ。俺はおまえに温めてもらうから」

「え?」


 私は、隣から伸びてきた腕に簡単につかまってしまう。
 そのまま彼の胸に引き寄せられた。


「!」


 抱きしめられたことにもびっくりしたが、それ以上に彼の体が冷えていることに驚いた。


「響さん、こんなに冷えて・・・!」


 気づくと、私は響さんの背に腕をまわして、背中をさすっていた。
 恥ずかしさは一時どこかへ行ってしまったようだ。
 それよりも冷え切った彼の体のほうが心配だったのだ。


「すみません。私が先にバスルームを使ってしまったせいで・・・」


 早くあったかくなれば良い。
 自分のぬくもりを分けてあげたくて、必死に温めようとしていると。


「・・・・・・まったく、おまえは。調子が狂う」


 少し戸惑った響さんの呟きが聞こえてきた。


「え?」


 そこで初めて私は彼の顔を見た。
 声同様、やはり少し困っている。
 眉間のしわがそれを物語っていた。
 どうしてそんな顔をしているのか分からない私に、響さんはため息をつく。


「おまえには警戒心が足りなさすぎる。この状況下で、本気で俺の体を温めようとするとは」

「だって、響さんの体、本当に冷えているから・・・」

「こういうことになるとは、思わなかったのか?」


 どういうことなのだろう。
 首をかしげている暇はなかった。
 響さんの上体が傾いて、一緒にベッドに倒れ込む。
 そして。


「あっ・・・」


 いつの間にか目の前に響さんが迫っていた。
 すぐ息のかかる距離に、彼の顔がある。


「俺はこういうつもりで、おまえをここへ連れてきた・・・と言ったら、どうする?」

「え・・・?」

「雨の予報日に傘も持たず、わざわざ雨に打たれながらおまえをここへ連れ込み、抵抗させぬまま、こうしてお前を押し倒している」

「それが全部、響さんの仕業だというんですか?」


 響さんは目を細めた。
 彼は黙ったままだったが、そうだとしたら? とその目は語っていた。


「・・・ふふっ」


 思わずこぼれた私の笑みに、響さんは眉をひそめる。


「何故そこで笑う?」

「だって、もしそうだとしたら、響さんは神様みたいだなと思って。天気を操れるなんて、神様でもない限り、難しいことだと思います」


 今日下校時にちょうどタイミング良く雨が降り出す。
 そのことを響さんが意識的に行えたのだとしたら、それはもう常人のできることではない。
 彼にしては珍しく変なことを言うと思った。
 くすくすと笑う私に対して、響さんはなるほどとうなずいてみせる。


「そうか。とことんおまえは無防備だということが、良く分かった」

「え?」


 どうしてそんな結論に至ったのか。
 その答えは彼の指の動きから始まった。


「!」


 そっと長い指が私の頬を撫でていく。
 なめらかに動くそれは、いとも簡単に私の顎を捕らえた。
 それと同時に響さんが額をくっつけてきた。


「ひ、響さん・・・!?」


 あり得ないほど目の前に迫る彼の目は、いつもと同じくつりあがって隙なく私を捕らえて離さない。
 言葉を紡げないでいる私に、吐息と共に彼の思いが紡がれる。


「確かに、天候を操ることはできないが、おまえが傘を忘れてくることはある程度予測できた。昨夜は遅くまで付き合わせたからな」

「!」


 さっと顔を赤くする私には構わず、響さんは続ける。


「雨が降る時間帯の情報とその予測があれば、こうして簡単におまえを誘いこむことができるということだ。別に雨を降らせる必要はない。勝手に降ってくるのを待つだけだ」


 先ほどは頬を撫でていた彼の指が、今度は体の線をなぞる。
 思わず身を震わせた私に、響さんが意地悪く問うてきた。


「どうした。気持ち良かったか」

「も、もうっ、知りません・・・!」


 恥ずかしくて顔をそむけたくても、目の前に迫る響さんがそれを許さない。
 いつの間にか捕らえられて、いつの間にか逃げられなくなる。
 いつものことだ。


「まあ、良い。今回は自分の無防備さが原因だったのだと諦めろ」

「今回も、の間違いじゃないですか」

「俺は別にどちらでも構わないな」


 眼鏡を外す彼の姿にどきりとした。
 悔しいけれど、いつもこの姿に心臓が止まる思いがする。
 だから、ろくに抵抗できぬまま彼を受け入れることになるのだ。


「沙弥。お前は俺だけを見ていれば良い」

「はい」


 うなずく私に満足して、響さんがそっと唇を重ねてきた。
 私は頭の隅っこで、ああ、今日も家に帰れないなあなんて、ぼんやりと思っていた。







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