私の望み
私は一路、卓さんの家に急いでいた。
あの戦いが終わってから、まだ半日しか経っていない。
鬼斬丸を巡る、血に塗られた歴史はようやく終わったのだ。
しかし、その実感もままならないほど、私はとにかくあせっていた。
まだ疲れの取りきれない体を酷使して、走り続ける。
「早く・・・早く・・・!」
私は呪文のように繰り返していた。
「卓さんに気づかれる前に、片づけをしなくちゃ!」
――――そう、忘れていた。
卓さんが私たちのもとから離れていた間。
何か手がかりはないかと、フィーアやアリアたちと卓さんの家を家捜ししたのだ。
そのときは色々立て込んでいて、夢中で資料を探していたから、片付けにまで考えが及ばなかった。
しかし。
しかしですよ。
よくよく考えてみれば、私たちは無断で他人の家に上がりこみ、強盗よろしく家中ひっくり返したわけです。
その惨状を見て、笑顔のまま凍りつく卓さんの顔が思い浮かんだ。
今、卓さんは神社で休んでいる。
守護者として大きな力を行使した後だ。
私よりも疲労は大きいはず。
卓さんが家に帰ってくる前に、何事もなかったように片付けておけば、何もかもなかったことになる――――様な気がする。
幸い、あのときのまま簡単に家に上がりこむことができた。
「・・・・・・」
玄関を抜けて卓さんの部屋に入り、改めてその有様に言葉を失う。
ひどい。
ひどすぎる。
あまりにものが散乱していて、片付けるといってももはやどこから手を付けたらよいものか、分からない。
だが、呆然としている暇はないのだ。
一刻も早く、元通りにしなければ。
「よし!」
私は腕まくりをすると、近くにあった古い本をまとめ始めた。
ページが折れていないか確かめつつ、丁寧に本を積み上げていく。
必死だったとはいえ、こんな多くの本を、よく散らかしたものだと思う。
記憶をたどりながら、もとにあった場所別に仕分けていく。
何気なくとった本を前に、ふと私は首をかしげる。
「ええと・・・。この本はどこにあったんだっけ」
「それは蔵の中ですよ」
「あ、そっか、確かそんな気が・・・」
え?
納得しかけた私の体は凍りついた。
今、独り言に、返事が聞こえなかった?
しかも、一番聞こえてはいけない人の声では・・・。
「!」
はっとして振り向くと、そこには、できたら私の目の錯覚であってほしい人物が立っていた。
「す、卓さん!?」
弁解も何も忘れて思わず逃げ出そうとした私の腕を、卓さんは驚くほど強くつかんだ。
そのまま私は卓さんの腕の中につかまってしまう。
「あ、あの、こ、これは! こ、これには深い理由が・・・!」
慌てふためく私の頭上から、ふと笑みが降ってきた。
「私のそばを離れて、あなたはどこへ行こうというんです?」
いつもと変わらぬ穏やかな声。
顔を上げると、少し困ったような笑顔があった。
「目が覚めてみれば、あなたは行き先も告げずどこかへ行ってしまっていて。何かあったのではと、心配しました」
「す、すみません・・・」
そういえば、慌てていて美鶴ちゃんに声を掛けられても、ろくに返事しなかったんだっけ。
「でも、ど、どうしてここが分かったの?」
「なんとなく、そんな気がしたのです」
にっこり笑って卓さんはこともなげに言った。
綺麗な笑顔。
卓さんはいつも笑顔だけれど、その下には悲しみや怒りを隠していたことを、私は知っている。
別れを告げられたとき。
私が近寄ろうとしたのを、結界を張って拒否したあのときの卓さんの笑顔がふと脳裏をよぎった。
私が見た中で、一番苦しかった笑顔。
あんな顔はもう二度と見たくない。
「どうしたのですか?」
まじまじと卓さんの顔を見ていた私に、卓さんはそう問う。
曇りのない、澄んだ微笑み。
ああ、と私は思う。
私は何より、この笑顔がほしかったんだ。
「卓さん・・・」
私はぎゅっと着物を握り締めた。
「これから、カミと人間が共存していけるように頑張ります。もう誰も悲しむことがないように」
「珠紀さん・・・?」
「だから、卓さんはずっと微笑んでいて」
それが私の力になるから。
卓さんは突然の私の言葉に、少し目を見開いた。
それからすぐに目を細めた。
「それがあなたの望みならば」
じっと見下ろす卓さんの瞳に吸い込まれるように、私はそこから目が離せない。
ふと卓さんの長いまつげが揺れた。
つられるように私も目を伏せる。
唇に優しい感触。
ぬくもりが去って再び目を開けると、すぐ近くに卓さんの顔があった。
「さて」
何事もなかったようにそんなことを言うと、卓さんは突然私を抱えあげた。
「きゃあっ!?」
あれ。この状況、朝もなかった?
顔を上げると、相変わらず卓さんの笑顔。
――――何か背後に黒いオーラを感じるのは、錯覚なのかな。
「あ、あの、お、おろしてください」
「駄目です」
うう。
私のお願いは即却下された。
「あなたはまだ十分休んではいないでしょう。もう少し休まねばなりません。加えて私もまだ本調子ではありません」
ですから、と涼やかな口調で卓さんはあっさり言った。
「一緒に休みましょう」
「ええっ?」
思わず大きな声を出して慌てふためく。
えっ、そ、それって・・・それって!?
まさかまさかと色々考えをめぐらせる私を、卓さんは実に楽しそうに見つめている。
しばらくして、妄想が膨らみすぎてどうしようもなくなった頃合を見計らったかのように、大丈夫ですよと卓さんが言った。
「座敷に布団を敷きましょう。今度は勝手にどこかへ行ってしまわないでくださいね」
「は、はい・・・」
ちょっと待って。
「大丈夫」?
何に対して「大丈夫」なのよ?
全然安心できない私だったが、結局何も返すことができなかった。
それは少し、罪悪感のようなものがあったからかもしれない。
勝手にどこかへ行ったのは、この部屋の惨状を見られたくなかっただけで、他に隠し事なんてない。
そういえば、卓さんはこの散らかりように何も言わないが、別に怒っていないのだろうか。
そんな私の心の疑問が届いたのか、そうそう、と卓さんが思い出したように付け足した。
「お互い、体の調子が戻ったら、色々聞きたいことがありますので、そのつもりで」
にこにこしているのは相変わらずなのに、やっぱりどこか不穏な響きがある。
私はうなずくのが精一杯だった。
鬼斬丸を巡る様々な出来事の中で、卓さんは決して心優しいだけの人ではないと分かったけれど・・・。
その先を考えるのは、やめた。
分かっているのだ。
私は改めて卓さんを見る。
悲しみも、険しさも、厳しさも、やるせなさも、負の感情は一切ない。
晴れ晴れとした表情が、卓さんの心の中を表しているような気がして。
もしそうなら、この人はこんなに満ち足りているんだ。
そう思うと、何も考えられなくなる。
この先も、きっとこの笑顔にはかなわないだろう。
確信に近い予感を胸に抱きながらも、それを望んでいる自分に対して、私はこっそりとため息をついた。