宿屋にて
「も、申し訳ありません、お侍様・・・」
消え入りそうなか細い声が、襖の向こうから聞こえてきた。
旅の途中の宿屋の一室。
湯上りで火照った体を涼めようと、柄にもなく月見を決め込んで窓辺にいた一刀斎は、その声にゆっくりと顔をめぐらせた。
「何だ」
愛想のない声に、襖の向こうにいた女中はしかられたと思ったのだろう。
「し、失礼いたします・・・」
さらに小さな声とともにすっと開いた戸の外には、声の主と思われる若い女中と下男らしき人物が立っていた。
一刀斎の目は、その下男が抱えていたものに奪われた。
「紗依!?」
目を見開いてぐったりとする彼女の身を、男からひったくるように受け取ると、とっさにその顔をのぞいた。
風呂へ入っていたはずの彼女の顔は、赤く染まっている。
何かあったのか。
湯あたりでもしたのか。
心配して顔を近づけた一刀斎の鼻腔をくすぐる・・・・・・かすかな酒のにおい。
これはどういうことかと視線を向けただけで、女中は気の毒なほど縮み上がった。
とっさにひざを突くと、畳に額をつけて震える声で必死に状況を説明する。
「申し訳ありません。わ、私が余計な真似をしたために・・・。奥方様は、お湯の中で少しお酒を召し上がられて、そ、そのまま酔ってしまわれまして・・・」
そういえば、自分も酒を振舞われた記憶がある。
妙に冷静なのは、女中が紗依のことを「奥方」などと言う呼び方をしたからだろう。
傍からはそう見えるのだろうが、改めて言われると何とも言えない気恥ずかしさが芽生える。
それを気取られたくなかった一刀斎は、
「分かったから、頭を上げろ」
そう言って二人にいくらかの銭を渡し、さっさと下がらせた。
部屋に残されたのは、酔っ払いだけ。
「紗依」
名を呼ぶと、完全に寝入っているわけではないらしい。
「ん・・・い、・・・とう、さい・・・さん・・・?」
ぼんやりとした声が返ってきた。
うっすら開いた目は、湯上りのためか酔いのためか、普段見せたことのないほど艶やかに潤んでいる。
「あ・・・れ? わたし・・・お風呂に入っていて・・・え?」
紗夜は一刀斎をとらえると、かわいらしく小首をかしげる。
「どうして、一刀斎さんが・・・一緒に入っていたっけ・・・」
そんなはずなかろう。
言葉にはしなかったものの、一刀斎はそんな意味の込められたため息をついた。
だが、そんな彼の様子に紗依は気づかない。
「そっか・・・一緒だったっけ・・・」
鈍い思考回路でたどり着いた答えに、勝手に納得してしまった。
冷静に考えれば、そんなことありえないと・・・まだそのような関係にはなっていないと分かるはずなのだが。
やれやれ、と再びため息をつこうとした一刀斎の耳に、不意に驚くべき言葉が聞こえてきた。
「でも・・・一緒でも・・・、まあ、いっか・・・」
「!?」
一緒でも良い?
食事を共にするのとはわけが違う。
風呂だぞ、風呂。
何か起きないとも限らない・・・むしろ一緒に入りなどしたら起きないで済ませる自信などこの男には欠片もなかった。
はっとして紗依を見ると、彼女は恥ずかしそうに目を伏せていた。
それは彼女の言葉が真実心からの一言だったということを、明確に証明している。
「紗依・・・」
呼びかけに反応してわずかに顔を上げた彼女の唇に、気がつくと一刀斎は己のそれを重ねていた。
理性の箍などもはやがたがただった。
一度触れてしまえばしばらくは止まれない。
「ん・・・」
時折漏れる鼻を抜ける甘い声が、さらに一刀斎を刺激する。
普段ならば突然のキスには驚く紗依も、今日は動きが緩慢で本当に意識があるのかさえ怪しい。
されるがままになっているのかと思いきや、一刀斎の差し入れた舌に応えようと、彼女のそれもそっと動いた。
あまり深い口付けに慣れていないはずなのに、彼女からの戸惑いは感じられない。
酔った勢いとは、良くも悪くも凄いと、妙に冷静な気持ちで一刀斎はそう思った。
「一刀斎さん・・・」
今までの間延びしたものとは違う声に、一刀斎ははっとした。
「紗依・・・?」
顔を離して彼女を見ると、紗依は穏やかに微笑んでいた。
いつもならば清らかでまぶしすぎるとさえ感じられるそれも、顔を紅潮させ、潤んだ瞳と濡れた唇が艶を含んでいるためか、ひどく己と近い存在に感ぜられた。
本人には意識はないのか否か。
紗依は袖がまくれてむき出しになった腕を、一刀斎の首に巻きつけた。
そして、とどめの一言。
「とても、愛しています」
その言葉とともに、珍しく紗依から唇を重ねた。
すぐに離れてしまう軽いものであったが、一刀斎の理性を砕くには十分だった。
首に腕を絡ませたまま、一刀斎は軽々紗依を抱き上げた。
襖の向こうには、すでに布団が敷かれている。
女中が夫婦と勘違いしたのはここにも表れていた。
二人分の布団はあるものの、二組はぴったりとくっついて敷かれている。
余計なお世話というか、サービス精神旺盛というか。
非常事態さえ起きなければ、要らない気遣いだと顔をしかめたであろう一刀斎であるが、今はそんなことはどうでも良かった。
そっと壊れ物を扱うように紗依の身を布団の上に横たえた。
それにあわせるように、彼女の白い腕も離れる。
布団の上に投げ出された四肢はあまりにも無防備で、ほんのりと赤く染まる肌はにおいたつような色香がある。
ゆっくりと一刀斎は彼女に顔を近づけ――――
「・・・・・・」
何を思ったのか、あっさりと身を起こした。
――――この女は・・・。
心の中で忌々しげにそう舌打ちした一刀斎は深く、深ぁくため息をついた。
先ほどまでの比ではない大きな行きの塊を吐き出すと、つい先ほどまで膨れ上がっていた己の欲望も一緒に出て行ってしまったようだ。
異様に冷静になった一刀斎は、改めて紗依を見た。
「すー・・・、すぅ・・・」
規則正しい寝息が聞こえるたび、それに比例するようにやりきれなさは募っていく。
散々人を誘うような真似をしておいて・・・。
いくら一刀斎でも、寝入った相手を襲う気にはなれなかった。
乱れた裾を直し、布団をかけてやると、一刀斎は妙に自分が所帯くさく感じられた。
健やかな寝顔からは、もはやあの色気は欠片もない。
それに安心している自分に気がつき、一刀斎は自分でも驚いた。
艶やかなまなざし、大胆な行動もいやではなかったが、あくまでもそれは、いつもの彼女像があって、そこから逸脱していた様子が面白いのである。
――――やはり、いつもの彼女のほうが良い。
ほつれた長い髪の毛を梳きながら、一刀斎はしみじみそんなことを実感した。