屋根の上で
「紗依」
座敷を抜け出した紗依は、廊下を歩き出した直後、聞きなれた声に呼び止められた。
振り返ると予想通りの顔があって、紗依はほっとしながらその人物の名を呼んだ。
「霞丸さんも一休みですか?」
「いや・・・」
口元は布に覆われていて、表情はあらわになっている目元からしか判断できないが、思案しているような様子だ。
「どうしたんですか?」
「お前と行きたい場所があるんだが、良いか?」
「はい、構いませんが・・・」
そうかとうなずいた霞丸は、風のように紗依に近づいてきたかと思うと、軽々と彼女の身を抱き上げた。
「!? ひ、一人で歩けますよ?」
「いや、この方が早い」
戸惑う紗依に構わず、彼女を抱く腕に力を込め、霞丸は造作もなく屋根の上に跳んだ。
「きゃあ!」
一瞬の浮遊感の後、目を開けた紗依の前には、見たこともない景色が広がっていた。
今まで見ていた風景が全部自分の下に見える。
見知ったところでも、上から見るとだいぶ雰囲気が違って感じられた。
「わあ、凄いですね」
そう言って笑いかけたのだが、相変わらず霞丸の表情は晴れなかった。
「霞丸さん?」
「・・・・・・」
霞丸は無言で紗依を足場の悪い屋根の上に立たせた。
「わっ・・・」
上手くバランスが取れなくてふらふらゆれている紗依から、彼は無情にも一歩一歩遠ざかっていく。
「霞丸さん・・・!」
紗依はわけも分からず、ただ慌てて霞丸の元に近づこうとするのだが、よろよろとおぼつかない足取りなので思うように動けない。
そんなことをしているうちに、どんどん彼との距離は広がっていった。
「待って!」
呼びかけても霞丸の歩みは止まらない。
「霞丸さ・・・きゃっ!」
焦りを色濃くにじませた紗依は足を滑らせて、その場にうずくまった。
落ちないようにこらえるのが精一杯で、霞丸から視線をそらしてしまった。
「え・・・?」
何とかバランスをとった紗依が顔を上げたときには、もう彼の姿はどこにもなかった。
「か、霞丸さん!? どこへ行ったんですか? 霞丸さん!?」
大きな声で呼んでみるが、返事はない。
「ど、どこへ行ってしまったの?」
立とうと思うのだが、先ほど落ちかけた恐怖が体に染み付いてしまったのか、足が震えて立つことさえ出来なかった。
急速に不安が広がる。
霞丸がいなければここから降りることが出来ない。
下には人はいるのだが、宴会の騒ぎに紛れて紗依の声は届かないだろう。
無理矢理飛び降りても大丈夫だろうかと屋根の縁の向こうを見て、息を飲む。
先ほどは新鮮に見えた見慣れた風景は、どこか遠い世界の景色となって紗依の目に映った。
「どうして・・・?」
なぜ霞丸はこんなところに連れてきたのだろう。
何か自分は彼の気に障ることをしてしまったんだろうか。
考えてみても、答えは霞丸しか知らない。
「霞丸さん、霞丸さん、戻ってきて・・・」
諦めきれずに何度も何度も彼の名を呼び続けた。
今この状況で頼れるのは彼しかいなかった。
彼に見放されてしまえば、紗依は最悪一晩この寒空の下で寂しさと不安と恐怖に戦いを挑まねばならない。
この場に一人残されたことよりも、霞丸においていかれたことのほうがずっとショックだった。
「霞丸さん、お願い・・・」
紗依は彼の後を追おうと無理矢理体を起こした。
ただでさえ足場が悪いのに、さらに足が震えているのだ。
歩きだすのは無謀だった。
「きゃあっ」
案の定紗依の体は大きく傾いた。
支えになるものがなくて、そのまま倒れてしまう。
紗依がぎゅっと目をつぶったとき。
「紗依!」
鋭い声音で名を呼ばれた。
かと思うと、来るべき衝撃に覚悟を決めた紗依の体がぬくもりに包まれた。
「え・・・?」
瞬間的に何が起こったのか理解できなかった。
倒れこんだのは間違いない。だが、どこも痛くない。
紗依はそっと目を開ける。
すると、目の前にはずっと名前を呼び続けていた人物が、ほっとしたように優しいまなざしで自分を見下ろしていた。
「霞丸さん・・・」
彼が戻ってきてくれたことに安堵して、知らぬうちに涙がにじんだ。
紗依は霞丸の首にしがみついた。
「良かった。戻ってきてくれて」
ぎゅうと腕に力を込めると、それ以上の力で抱きしめ返された。
「あまり無茶なことをしないでくれ。びっくりした」
「無茶なことをさせたのは霞丸さんじゃないですか!」
「うっ・・・」
思わぬ紗依の反論に、霞丸は言葉に詰まった。
「だいたい、どうしていなくなっちゃったんですか。霞丸さんに嫌われてしまったかと思いました」
「すまん・・・その、試すようなことをした・・・」
「試す?」
すぐ近くにある彼の琥珀色の目を見ると、ばつが悪かったのかついと視線をはずされた。
「霞丸さん!」
答えを急かすように強い口調で名を呼ぶと、やっと霞丸は口を開いた。
「お前が本当に俺を慕っているのか、知りたかったのだ」
「え?」
瞠目する紗依をしっかりと自分の腕の中に収めると、さらにポツリポツリと言葉をこぼす。
「お前が俺を必要とするのか見てみたかった。お前にとって俺の存在はどんなものなのか」
「霞丸さん・・・」
紗依が何気なく霞丸の名を呟く。
するとそれにあわせたように、彼がゆるゆると顔を上げる。
今まで左肩の上にあった重みは、すぐ目の前に迫っている。
紗依は自分の顔が映る金色の目をじっと見つめた。
不思議なことに、引き込まれるように霞丸の真摯なまなざしから目が離せない。
「紗依」
一瞬たりとも意識をそらさせないように、霞丸は紗依の視線を絡めとる。
「お前に俺は必要か?」
「はい」
答えは即座に出た。
聞かなくても分かることだ。
紗依の声が冷気を帯びた夜風に乗って運ばれると、一瞬息を飲んだ霞丸が腕に力を込めた。
二人とも、自分の顔が映る瞳しか見えていない。
どちらからもそれ以上言葉は出なかった。
互いの熱を分け合いながら、二人だけの聖なる夜は静かに更けていった。