優しい時間








「きゃっ!」


 のどかな休日の昼下がり。
 二人の住む家の窓から差し込んでくる少し強すぎる日の光は、まるで大陸全体に活力を注ぎこんでいるようだ。
 今日は急ぎの研究もレポートもない。
 レインもアンジェリークも、お互い時間を持っていた。
 そんなゆったりとした休日にあるまじき悲鳴がキッチンから上がったので、リビングで専門雑誌に目を通していたレインは、はっとして声の主のもとへ急いだ。


「アンジェ!? どうしたんだ?」


 今彼女は、午後のティータイムのために、レインの大好物であるアップルパイを作ってくれているはず。
 そこで何故悲鳴が上がるのか。
 そのわけは、キッチンに駆け込んだ時にすぐ判明した。


「アンジェ、お前・・・」


「レイン、ごめんなさい」


 しょんぼりとうなだれるアンジェリークの胸元から下には、白い粉がぶちまけられていた。
 罰ゲームもかくやと思うほど、見事なかぶりっぷりだ。


「生地を作ろうと思って、買ってきたお粉の袋を開けようとしたのだけれど、なかなか開かなくて。それで力いっぱい袋を引っ張ったら・・・」


「なるほど。この状況になったんだな」


「ごめんなさい、レイン。もうお粉はこれしかないの。でも、私がこぼしてしまったから・・・」


 アンジェリークはいまにも泣きそうなくらい、ショックを受けている。
 粉を台無しにしたことよりも、粉がなくなったことでアップルパイを作れないことが、もっと言うとアップルパイを作ってレインを喜ばせることができないことが、彼女の心に大きな影を落としていた。
 そのことが良く分かったので、レインはアンジェリークの手を取り、自分の方へ引き寄せながら首を振った。


「良いんだ。気にするな。お前に重大な何かが起こったんじゃなくて良かった」


「私にとっては重大なことよ。これじゃあアップルパイは作れないもの」


 本格的に落ち込むアンジェリークに、レインはそんな風に思い詰めないでほしいと思いつつ、自分のためにそこまで悲しんでくれる彼女が心から愛おしく感じられる。
 レインがふと視線を下げると、しょんぼりしているアンジェリークの顔が間近に迫った。
 その顔を見た途端、彼はぷっと吹き出してしまった。


「レインたら、いきなり笑い出すなんてひどいわ」


「ああ、悪い。お前があんまりにも泣きそうな顔をしていたから」


「それで笑うの?」


 アンジェリークは頬をふくらませて抗議の意を示したが、レインは目を細めて微笑んだ。


「本気で落ち込むお前を見て、『オレはこんなに愛されているんだな』と実感している自分がおかしいと思って」


「え?」


 いぶかしげに眉を寄せるアンジェリークに、レインは浮かべる笑みの中に苦笑をにじませた。


「ほら、おかしいだろう? オレのためにお前が悲しんでいる――――本当はいつだって幸せでいて欲しいが、『オレのために』ということが、オレを喜ばせるんだ」


 このことについて、アンジェリークからの返事は期待していない。
 きっと、変なことを言っていると思われているだろう。
 その自覚はあるのだから。
 レインは間を持たせるように、アンジェリークに降りかかった粉をはたき落してやった。


「本当に、見事にひっくり返してしまったんだな」


「レイン、手を止めて。もう良いわ」


「ん?」


 それはレインが手を止め、一瞬動きをやめた、その瞬間だった。


「!」


 狙い澄ましていたのか偶然か。
 アンジェリークが思いきりレインに抱きついた。


「アンジェ!?」


「お互いさまよ」


 レインの胸に顔をうずめながら、アンジェリークのくぐもった声は途切れ途切れにレインの耳に届く。


「これでレインだってお粉まみれになったんだもの」


「あ、ああ、まあ・・・そうか」


 アンジェリークの腕がしっかりとレインの腰をとらえて離さない。
 ここまで密着していれば、触れた部分から粉の惨事がレインにも影響を落とす。
 だがレインには、腑に落ちない点があった。


「アンジェ?」


「・・・・・・」


 アンジェリークはただ悔し紛れに、レインを巻き込むだけに抱きついてきたわけではないということは、すぐに分かった。
 きっとほかに何か意図があるはずだ。
 なかなか口を開かないアンジェリークを、レインは辛抱強く待った。
 相変わらず綺麗な髪の毛をしていると、目の前にある水色の緩やかな流れを一房すくってみると、彼女は思いのほか敏感に身を震わせた。


「っ、あのね、レイン!」


「どうしたんだ?」


 抱きついたつもりが、いつの間にか、思いの外筋肉のついたレインの腕の中に抱きこまれているとか、優しい手つきで頭を撫でられているとか、アンジェリークにとって不測の事態が起きていることへの動揺からか、彼女は弾かれたように顔を上げた。
 その顔は、まだその時間には早い、夕焼け色をしている。


「私も、レインがいつでも私を思っていてくれること、とても嬉しいわ。何かあればいつでも駆け付けてくれて・・・」


 だからお互いさま。
 そう言ったまま照れた顔を伏せてしまったアンジェリークが、無性に愛おしい。
 このまま強く抱きしめて、大切に自分の腕の中にしまっておきたい。
 だがこれは、単なる自分勝手な我がままに過ぎないことはよく分かっていたので、レインはいったんアンジェリークを解放する。
 そして改めて手をとった。


「お前もオレと同じ気持ちでいてくれて安心したよ。ありがとう」


「そんな、私だって、ありがとうと言いたいわ」


「ああ、お互い様か」


 二人の視線が絡み合う。
 それだけでお互いの顔が微笑みに変わるのだから、大変素晴らしい魔法を手に入れたようだ。


「じゃあ、街へ出ようぜ。粉を買いにいこう。それとも外で何か甘いものを食べようか?」


「両方が良いわ」


「オーケー。まあ、その前にお互い着替えなければいけないけどな」


「そうね」


 二人の休日は、穏やかに、優しく過ぎていく。
 互いの手を取り合いながら。











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