雪待ち





 昨夜降り続いた雪は京を白に覆い尽くし、そこに息づく人々の気配すらも隠してしまうかのように、静寂をもたらしていた。
 それはこの藤原邸においても同様だった。


 家人はいつも通りの仕事をしているのだろうが、目が覚めた時、花梨は初め人の気配が感じられなくて焦った。
 それは雪が人のなす音や声を消してしまっているからなのだが、朝起きぬけに動揺させるには十分の現象だ。


「今日は外出するのは止したほうが良さそうですわ」


 朝の挨拶にやってきた紫姫は、開口一番そう口にした。


「すごい雪だもんね。ホント、雪景色だね」

「特に昨夜降った雪はいつもより多かったようなのです」


 紫姫は困ったようにふうとため息をついた。
 雪は風情があり、屋内から眺め楽しむのは良いのだが、こと実務的なことを考えれば、あまり歓迎できる状況でもない。
 いつもできることが制限されるからだ。


 花梨のことでいえば、この雪では京の中を回って怨霊を浄化することもできない。
 幼い姫を悩ませるのは、どうやらその辺に原因があるようだ。


「邸内の雪掻きも終わらない有様なんですの。神子様にはこちらに控えていただきますよう・・・あら?」


 紫姫は、ぱたぱたと駆け寄ってきた女房に小首を傾げる。
 そして耳元で囁かれた言葉に、「まあ」と驚きの声を上げた。


「どうしたの、紫姫」

「ええ。どうやら幸鷹殿がいらしたようなのです」

「こんな大雪の中?」


 早くお通しするようにと紫姫が命を出すと、程なくして雪に濡れた幸鷹が申し訳なさそうに顔をのぞかせた。


「すみません。足元を雪にとられ、完全に払いきることができなかったもので、廊下を濡らしてしまいまして・・・」

「それより幸鷹さん、早くお部屋へ入って下さい」


 花梨は幸鷹の手をとって、熾したばかりの火鉢の傍へと座らせた。


「幸鷹さん、こんな雪の中、来てくれたんですね」

「ええ。もしかしたら、神子殿が外に出られるかもしれないと思いまして」

「さすがにこの雪では、神子様も風邪を召されてしまいますわ」


 紫姫はくすりと大人びた笑みを浮かべた後、何か温かいものでも用意させましょうと言って、二人の前を辞していった。
 幸鷹のほうは、紫姫の言葉に渋い顔をした。


「確かに、紫姫のおっしゃるとおりですね。この中、神子殿を連れ回すわけにはいきません。私としたことが・・・」

「でも、私は、幸鷹さんが来てくれて、凄く嬉しいです」

「えっ」


 花梨はそっと幸鷹の手を、自分のそれで包み込んだ。


「やっぱり、凄く冷えています。こんなになっても、お屋敷に来てくれて、ありがとうございます」


 少し湿っているのは、雪を払った時の名残だろう。
 良く見ると、いつもより赤く凍りついている。
 花梨は自分の体温を分けるように、何度も彼の大きな手をさすった。


「早く温かくなると良いんですけど・・・」

「・・・・・・」


 しばし花梨の行動を見つめていた幸鷹だったが、一生懸命手を温めようとする彼女の姿に、思わず笑みをこぼしていた。


「神子殿」

「? どうしたんですか? まだ寒いですか?」


 小首を傾げるその姿が愛おしい。
 そんなことを幸鷹が思っているとは知らない花梨は、穏やかに微笑む彼の顔にどきりとした。


「いえ、寒くはないのです。ですが、こうして神子殿と触れあえることが、やはり嬉しく思えただけで」

「あ・・・」


 そうか、と花梨は気がついた。


 少し前までは、花梨は幸鷹に触れることができなかった。
 触れてしまえば彼を苦しめることになる。
 だが、幸鷹は遂にそのまじないを解く決意をした。


 そのことを経て、今こうして手を取り合えている。
 その事実が、今更のように思い出された。


「ごめんなさい。私、手・・・」


 今更といえば、彼の手をとっていたことだ。
 男の人の手を何のためらいもなく握った自分が、信じられなかった。
 慌てて引っ込めようとした花梨だったが、それより早く幸鷹の手が彼女の手を捕らえた。


「すみません、神子殿。やはり少し、寒い気がします」


 そう言って、ぎゅっと指に力を込める幸鷹。


「もう少しお手をお借りしてもよろしいですか?」

「わ・・・私の手が、カイロ代わりになれば・・・」

「贅沢なカイロですね」


 くすりと幸鷹が笑みをこぼした時だった。


「おや、私もその『カイロ』とやらのお世話になりたいんだが」

「!?」


 庭から聞こえた第三者の声に、花梨と幸鷹は揃ってはっと顔を上げた。


「やあ。あまりに良い雰囲気だったから、声を掛ける機を逸してしまったよ」


 悪びれた風もなく庭から現れた彼――――翡翠は、降り積もった雪すらも自分の登場を彩る効果にしか考えていないほど軽い足取りで、庇の下まで歩み寄った。


「・・・声を掛ける機を逸していたということは、ずっとそこで覗き見ていたということですか?」

「ふふっ。さあね?」


 相変わらず底の見えない笑みを見せた翡翠に、まだドキドキと鼓動の落ち着かない花梨は、何度も深呼吸しながら火鉢の隣を示す。


「翡翠さんもわざわざ来てくれたんですね。ありがとうございます。でも、今日は・・・」

「ああ、分かっているよ。この雪の中、神子殿を連れ回す気はないからね」

「じゃあ、どうして・・・」

「今日一日は雪に閉じ込められて、神子殿は暇を持て余しているのではと思ってね。まあ、先を越されてしまったけれど」


 ねえ、別当殿、と流し眼を受けた幸鷹は、何か言いたげに口を開いたが、そこから言葉が出てくることはなかった。
 その隣では、花梨が首を傾げている。
 二人の様子が可笑しかったのか、翡翠は珍しく声をたてて笑った。


「あ、翡翠さんもそんなところにいないで、温まっていってください」

「いや、私はこのまま帰るよ。あまり野暮な真似は好きじゃないんだ」

「え?」


 翡翠はそれだけ言うと、そのまま庭の奥へと消えていってしまった。


「翡翠さん、わざわざ来てくれたのに、良かったんでしょうか?」

「彼も彼なりに考えるところがあるのだと思いますが・・・」


 幸鷹はそこで言葉を止め、ふうとため息をついた。
 これは、不味い相手に借りを作ったのではと思う半面、全てを察したように帰っていった彼に、少しばかり感謝しないでもない。


「・・・とにかく、多分、大丈夫だと思いますよ」

「そっか・・・。翡翠さんですもんね」


 二人は示し合わせたわけでもないが、自然と庭へと視線を向ける。
 真っ白な雪の褥の下には、いつも見慣れた風景が隠れている。
 それがまるで今の自分たちの状況を表しているようだった。


「今日だけは・・・お屋敷で休んでいても、良いですよね?」

「ええ。今日は特別ですから」


 きっと、花梨だけではなく、幸鷹も同じことを思っていたのだろう。
 それが花梨には無性に嬉しかった。
 それからは、紫姫が時々顔をのぞかせたくらいで、他の来訪者はなかった。
 二人は雪景色をのんびりと眺めながら、ゆったりとその日を過ごしたのだった。






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