夢から覚めて
――――私のものに、なってくれるのでしょう?
彼女が、艶やかな微笑とともにそう問うた。
見慣れた顔。
聞き慣れた声。
俺が愛したものが、彼女には揃っていた。
だが、唯一にして最大の違いは、俺が愛した人と、彼女はまったくの別人であることだ。
姿は同じ。
声も同じ。
何もかもあの人と同じであるのに、肝心のあの人は、ここにはいない。
否、いることはいるのだ。
ただ、彼女の胸の奥深くに沈められているだけで。
――――はい。
俺に「是」の答え以外なかった。
うなずく俺を、彼女は満足そうに笑顔で応じた。
そんな蟲惑的な笑い方を、あの人は絶対にしない。
あの人と同じ顔で、そんな風に笑わないでほしい。
心を動かさないようにしていても、ふとしたときに見えるあの人との違いに、改めて心をえぐられる。
どうやったらあの人を救えるのか。
頼みの綱は、自分に流れる血の力だ。
散々悪夢を見せ続けたあの力が、今一番頼りになるものだった。
正直、信じて良いのかわからない。
もしも間違いであったら・・・。
不安は尽きない。だが、俺は最後の望みを、俺が見た夢にかけるしかなかった。
もう、後戻りはできないのだ。
俺は仲間を裏切ったのだから。
あの時――――仲間に弓を構えた時に分かった。
自分は彼女のためなら、仲間さえ簡単に裏切れるのだと。
それに、もしも、この夢見の力がなかったとしても、俺は仲間を裏切っていただろう。
あの人に矢を射るなど、俺には絶対にできない。
――――ねえ、譲くん?
彼女はあの人を真似て、俺の名を呼ぶ。
平静を装う俺が、心の底で傷ついているのを、彼女はおそらく知っているのだろう。
だから、あえてあの人と同じ呼び方をするのだ。
もう二度と、あの人は戻ってこないのだと、俺に言い聞かせるように。
これがあの人の言葉だったら、どんなに幸せだろう。
・・・俺はその幸せを手に入れるためなら、どんな手だって使うつもりだ。
たとえ。
――――たとえ、あの人に、裏切り者と呼ばれようと。
「・・・くん・・・? ・・・譲くん?」
「え?」
俺は心地よい声に呼ばれて目を覚ました。
いつの間に寝ていたのだろう。時計に目をやると、最後の記憶から三十分ほど過ぎていた。
正面からは、あの人が心配そうに俺を見つめている。
「大丈夫? 少しうなされていたみたいだったけど・・・」
「・・・ええ。大丈夫です」
俺が笑って見せると、あの人もつられて笑みを浮かべた。
そう、これが、俺が愛した笑顔。
俺はゆっくりと首をめぐらせた。
「すみません。宿題をやっている途中で、いつの間にか居眠りをしていたようです。起こしてくださって、ありがとうございました」
見慣れた自室の、使い古した机に向かっている途中で、どうやら俺は眠りこけてしまったらしい。
この年末年始は色々なことがありすぎて、少し疲れていたのかもしれない。
「ごめんね。本当はゆっくり眠らせてあげたかったんだけど、譲くん、苦しそうな顔をしていたから・・・」
そう言って、あの人は顔を伏せた。
そうやって人のことを、まるで自分に起きた一大事のように真剣に考えてくれるのは、疑いようもない。本物のあの人だ。
もう終わった。
あの人は――――先輩は戻ってきた。自分を取り戻して、全てが終わったのだ。
異世界の皆はすでにもとの世界に戻っている。
もはやあの戦いの痕は、俺たちの記憶の中にしかない。
あの扉も、いつの間にか消えていた。
それは重々承知しているはずなのに。
何故あのときの夢を見たのか、俺にはわからなかった。
「いえ、気にしないでください。むしろ、起こしてくれてありがとうございます」
「譲くん・・・」
「?」
彼女はふと視線をそらせて思案した後、
「もしかして、また悪い夢を見ているの?」
「えっ・・・」
苦しそうな顔で問うてきた。その表情は、まるで彼女のほうが悪夢を見た後のようだ。
とっさに俺は首を振った。
「い、いえ。違いますよ」
「うそ!」
すかさず彼女は俺に詰め寄った。
「伊達に長いこと一緒にいないもの。譲くんが嘘ついていることくらい、分かるよ」
その目はとても真剣で、心から俺を案じてくれているのが良くわかった。
このまっすぐな視線から、どうやって逃れられよう。
「・・・すみません」
俺は頭を下げると、一呼吸置いた後。
「あのときの夢を見たんです。・・・先輩が、荼吉尼天に体をとられてしまったときの」
「あのときの・・・?」
星の一族の血が見せる未来の夢のことを想像していたのだろう。先輩は意外そうに目を丸くした。それから渋い顔へと変わる。
「・・・あの時は、本当にごめんね。譲くんに、いっぱい怪我させちゃったから」
先輩の心の隙間に住み着いた荼吉尼天は、先輩の体を操って俺を殺そうとした。
何度か攻撃を受けて俺が負傷したことを、彼女はひどく気にしている。
俺から言わせれば、ちゃんと先輩の異変に気づかずに、体を他の者に奪わせてしまったことのほうが大きな罪であるというのに。
俺の怪我はすぐに治った。
だが、先輩はことあるごとにその怪我のことを心配し、いつも謝ってきた。
俺は決まって首を振る。
「それはもう、忘れてください。先輩は戻ってきて、荼吉尼天は消滅したんです。それで良いじゃないですか」
「うん・・・でもね」
先輩はそっと腕を伸ばすと、俺の胸に触れた。
そこは、彼女から刀傷を負ったところだ。
「・・・痛かったよね。私、どうしてあの時、譲くんに怪我を負わせる前に、荼吉尼天を追い出せなかったんだろう。私がしっかりしていれば・・・」
「先輩、それは違います」
どこまでも自分を責め続ける先輩に、俺は全力で否定する。
「攻撃を避けられなかったのは俺のせいです。あなたは何も悪くない」
このセリフは、もうこれで何度目だろう。彼女が自分を責めるたびに同じことを言ってきたが、もはや両方の手の指を使っても、数え切れない。
それほど彼女は己を許せないでいた。
どうしたら、彼女の悩みを消せるのか。
――――俺は、思い切ってこんなことを言った。
「先輩は、俺に対して何か償いをしたら、それで今回の件は全て忘れることができますね?」
「・・・うん。譲くんに何かしないと・・・今のままじゃだめなんだ」
「じゃあ、証明してください。先輩の中に、もう荼吉尼天はいないって」
「証明って、どうやって・・・?」
戸惑う先輩が顔を上げた隙に、俺は彼女を抱き寄せた。
「・・・俺にキス、できますか?」
「えっ・・・」
目を瞠る先輩から目をそらさぬよう、精一杯の努力でじっと見返す。
「もし、先輩の中に荼吉尼天がいたら、そんなことできません。・・・証明、できますか?」
挑戦状に近い発言だ。
俺にとって決死の一言を、彼女はどう思ったのだろう。
もちろん、いままで先輩とキスなどしたことはない。こうして抱き合うのでさえ、ほとんどないのだ。
あるはずがない。
・・・別に、やましい気持ちだけで動いたわけではないのだ。
具体的な償い方を求められれば、今度はそれに集中する。
俺の怪我のことなど、早く忘れて、いつもの彼女に戻ってほしかった。
・・・少々いいわけじみているが。
と、何を思ったか、腕の中の先輩は俺の予想を遙かに超える回答をよこした。
「じゃあ、目をつぶって」
「え?」
繰り返すが、彼女と抱き合うことすらまれである。それなのに彼女は、
「うん、分かったよ」
あっさり過ぎるほど簡単に俺の要求を呑んだ。
「えっ、ちょっ・・・」
俺が戸惑う間に彼女の顔がすぐ近くによって来た。
――――彼女は、何のためらいもなく俺と唇を重ねた。
唇が離れて、限界まで見開かれた俺の目を見ると、先輩は少し微笑んだ。
「どうかな? 証明できた?」
「それは・・・」
この人にとって、キスとはそんなに簡単にできるものなのか。
そんな無言の訴えが彼女に届いたのだろう。
今度は声を立てて笑い始めた。
「譲くん、自分からしろって言ったくせに」
「だ、だって、本当にするとは・・・」
「どうして? 不思議じゃないよ。だって、私は譲くんが好きなんだもの」
あっさりそう告白すると、先輩は俺の背に手を回した。
「だから、キスで私が私であることを証明するなんて、全然難しいことじゃないんだよ」
ややうつむき加減の先輩の顔が少し見えた。
ほんのり紅のさした顔を見て、ようやく俺も思い出したように顔が紅潮していくのが分かった。
本当に、いつも驚かされてばかりでかなわない。
分かっていたこととはいえ、俺は改めてそう思うと苦笑が抑えられなかった。
「・・・じゃあ、何度でも証明してください。先輩が先輩だという証を」
「・・・うん、いいよ」
俺を抱く先輩の腕に、きゅっと力が入った。俺も同じように彼女を抱きしめる。
やっぱり、本物は、違う。
姿かたちは同じでも、中身までは替えられない。
この人でなければだめなのだ。
俺はそっと、彼女の頬に手を添えた。
俺の意を汲んだ先輩が目を閉じる。
――――本当に、先輩は自分を取り戻して、俺のもとへ戻ってきてくれたのだ。
そんなことをしみじみ感じつつ、俺は今度は自分から彼女が彼女であることを証明した。