ずっと。ずっと。




 

「ふふっ」


 アンジェリークは実にいい気分だった。
 今日はレインの誕生日だ。
 夕食は二人でお祝いを、と約束して、腕に頼を掛けて、半日掛かりでレインの好きなものを用意した。


 二人きりで過ごす初めてのレインの誕生日。
 それは、特別な夜になるはず・・・・・・だった。


「うふふふ」


 ふにゃりと蕩けた笑みを浮かべるアンジェリークなのだが、様子がおかしい。
 ――――それもそのはず。


「そうか、これが原因か」


 レインはグラスを傾けて、一口透明な液体を飲んだ。
 食事の時間までにはまだ少し時間があるからと、財団での仕事を終えたレインに合わせて、二人で一息ついたところだった。
 そこで珍しく出されたのが、グラスに注がれているそれだ。


「店員さんにお勧めされたのよ。珍しいお水なんですって。キリセから届いたものだと言っていたわ」


 嬉しそうに言いながら、彼女自身飲むのを楽しみにしていたらしいアンジェリークは、何のためらいもなくグラスいっぱいに満たされた「水」を飲み干して・・・・・・今の状態に至った。


「これは・・・・・・!」


 炭酸の入った水かと思ったら違う。
 アルコールの味がする。
 念のためボトルを確認すると、赤字でアルコール飲料であることが記載されていた。


「アンジェは、気がつかずに買ってしまったのか?」


 さすがにまだアンジェリークは酒を飲めない。
 店員の手違いか、彼女の勘違いか。
 レインには定かではないが、とにかく目の前のアンジェリークが酔っ払っていることだけは良く分かった。


「大丈夫か?」


 彼女の傍らに膝をついて、顔を覗き込む。


「ふふ、平気」


 幸いご機嫌な以外は、別に異常はなさそうだ。
 ただ、ゆらゆらとアンジェリークの体が揺れている。


「無理しないで、少し休んだらどうだ?」


 ふらふらしていたのでは、レインも気が気ではない。
 しかし意外にもはっきりと、アンジェリークは首を振る。


「いえ、大丈夫よ。レインと一緒にご飯食べたいもの」

「と、言ってもな」


 本人は平気そうにしていても、体は正直というところなのだろうか。
 アンジェリークは絶えず上体のバランスを崩している。
 これでは食事などできないだろう。
 だが、彼女は頑として譲らない。


「今日は特別な日だもの。休むなんて嫌よ」


 ギュッとレインの腕を掴んで、まっすぐな眼差しでそう訴える。
 アルコールで潤んだ目が、何とも愛らしい。
 その瞳に、いつも折れるのは自分のほうだとレインは苦笑した。


「分かった。お前がそう言うならそれで構わない。だが、少し時間をくれないか?」

「え?」


 レインは隣に座っているアンジェリークの膝の上に頭を載せた。


「研究が行き詰っていてな、少し疲れた。自分の誕生日くらい、甘えさせてもらっても良いだろう?」


 そう言って目を閉じると、とたんに心配そうなアンジェリークの声が降ってきた。


「そんなに疲れているの? 寒くはない? 毛布を持ってきましょうか?」

「いや、良い。オレはお前の膝枕で十分だ」


 レインは猫のように身を丸くする。
 エルヴィンはいつでもこんな至福な気持ちでアンジェリークの膝の上にいるのかと思うと、少し妬いてしまう自分がいて、レインはそっと照れたような笑みを浮かべた。


 静かになってしまったレインを気遣うように、アンジェリークの手が優しくレインの頭を撫でる。
 酔っ払っていても、彼女は相変わらず優しい。
 本当に自分が猫になったようだとレインは思った。


 それからいくらもたたないうちに、アンジェリークの手が止まった。
 かわりに安らかな寝息が聞こえてきた。


「・・・・・・」


 レインはそっと目を開けた。
 真上にある愛しい少女の寝顔に、思わず表情が綻ぶ。


「やっぱり、大丈夫じゃないだろう」


 手を伸ばして彼女の頬に触れても、アンジェリークはぴくりと眉を寄せただけで、すぐに眠りに戻っていった。
 キッチンからは、先ほどから食欲をそそる良い匂いが漂ってくる。
 自分が留守の間、どんな思いでアンジェリークは用意をしてくれていたのだろう。


 買い物の間。
 料理の間。
 レインを待つ間。


 その間中、ずっとレインのことを考えてくれていたのだろうか。
 もしそうだとしたら、こんなに嬉しいことはない。


「オレは、お前がオレを想って祝ってくれるから、今日がこんなに特別に感じられるんだ」


 陽だまり邸に拠点を構え、オーブハンターとしてアルカディアを飛び回っていたあの頃は、アンジェリークの心は女王の卵としての使命でいっぱいだった。
 たくさんの人々の幸せのために大陸を駆け回る彼女に、想いを募らせていったのは、当然のことだった。
 もとより、一目見たときから心は彼女に奪われていたのだから。


 使命を終えて、アンジェリークはこのアルカディアの地に残り――――今、自分の目の前にいる。


「それがオレにとってどんなに幸せなことなのか、お前には分からないだろうな」


 レインはゆっくりと身を起こした。
 顔を近づけても、彼女はまるで起きる気配がない。


「無防備も良いところだ」


 苦笑しながら、流れるような動作で、優しくアンジェリークに口づけをした。


「・・・・・・」


 彼女は相変わらず眠ったままだ。
 きっとキスしたことが分かったら、顔を真っ赤にして盛大に照れてくれるだろう。
 それはまた今度のお楽しみだ。
 その様を想像して、レインはふと笑みをこぼした。


「誕生日プレゼントは、ちゃんともらったぜ」


 つん、とアンジェリークの唇をつついたレインは、ソファに座りなおして、入れ替わるように彼女の頭を膝の上に載せた。
 太腿に小さな頭が載っている。
 それほど重くはないのに、かけがえのないものだという想いだけは膨らんでいくのだから、彼女の存在は自分にとってどれほど大きなものかが分かる。


「オレを選んでくれて、ありがとう」


 自然とお礼の言葉が口をついて出た。
 大切なアンジェリーク。
 何よりも大事な彼女をこうして独り占めできるこの瞬間を、レインは限りなく愛おしいもののように思えた。


 幸せすぎて胸が苦しい。
 こんな感情は初めてだ。


「オレはこんなにも、お前のことが好きだったんだな」


 改めて口にすると照れくさい。
 さらりと水色の柔らかな髪の毛を梳くと、アンジェリークはほんのりと微笑んでいた。



   +   +   +   +   +   +   +




「ん・・・」


 小さなうめき声が聞こえてきて、レインは読んでいた論文集から目を離した。
 もぞもぞと身じろぎしたアンジェリークが、目を開けたようだ。
 ぼんやりした表情で目をこすっている。


 寝ぼけ眼の彼女など珍しい。
 つい口元が綻んでしまった。


「おはよ、アンジェ」


 そう声を掛けると、ようやくアンジェリークは目を覚ました。


「レイン!? わ、私・・・!」

「少し眠っていたんだ。オレに付き合わせて悪かったな」

「ごめんなさい! 疲れていたのはレインのはずなのに、私の方が眠ってしまっていて」


 すっかり酔いが醒めたのか、いつもの彼女に戻っている。
 記憶もちゃんとしているようで、レインが休みたがっていたことも思い出したようだ。


「いや、オレも休ませてもらっていたんだ。サンキュ」


 気にするなとレインは首を振ったが、彼の読みさしの論文集を見たアンジェリークは、自分が思いのほか眠っていたことを瞬時に悟ったようだ。
 そして、彼女の表情が申し訳なさいっぱいになる。


「私ったら、今日はレインの誕生日なのに・・・!」


 レインが帰ってきたのは夕方だったが、辺りは明りをつけなければならないほどとっぷり夜に浸かっていた。
 自分を責め始めてしまったアンジェリークに、レインは首をかしげた。


「どうしてそんなに泣きそうな顔をしているんだ?」

「だって、せっかくお祝いしようと思っていたのに、寝てしまうなんて。ごめんなさい。嫌な思いをさせてしまって」

「嫌な思いなんてしてないぜ」


 レインはアンジェリークを抱き寄せる。


「お前がそばにいるんだ。不満を言ったら罰が当たる」

「退屈ではなかった?」

「まさか。お前を独り占めできたんだから、退屈だったわけないだろう」


 それに、とレインはにっこり笑った。


「お前の寝顔を眺められたし、寝言も聞けたからな」

「ね、寝言!?」


 とたんにアンジェリークの顔が真っ赤になる。


「わ、私、何か言っていたの?」

「ああ」

「な、なんて・・・?」


 恐る恐る尋ねるアンジェリークが可愛くて、レインは噴き出した。


「さあな。どうかな」

「もう! からかったのね」


 今度は頬を膨らませる姿が愛おしい。
 どんな表情を見ても、アンジェリークが好きだと実感させられる。
 どれほどこの少女に心を奪われているのだろう。
 こんなにレインの心をアンジェリークの存在が満たしていることを、彼女は気が付いているだろうか。


 ・・・・・・気が付いていなくても良い。
 きっと、これから気が付いていってくれるはずだから。


 レインはぎゅっとアンジェリークを抱きしめた。
 腕の中で彼女が息をのんだのが分かったが、腕の力を弱めることはしなかった。
 壊れものを扱うようにそっと、しかし、離したくないのだと想いをこめて、彼女を捕える。


「アンジェ」


 そして、小さく、彼女に聞こえるだけの声で、耳元で囁くように告げる。


「――――愛してる」


 たった一言。
 言葉が足りないのは分かっていたが、それ以上何も浮かばなかった。
 いくら言葉を重ねても、この胸の想い全てを伝えきることなどできないから。
 言葉では伝え足りない想いは、レインの鼓動から直接彼女に伝われば良いと思った。


「レイン・・・」


 しばらく驚きで硬直していたアンジェリークだったが、おずおずとレインの背に手を回してきた。


「うん?」

「これからはずっと、レインのお誕生日を一緒にお祝いさせてね」


 顔はうつむけたまま。
 声はいつもよりずっと小さい。
 けれどアンジェリークは、しっかりとレインの身を抱きしめ返していた。


「ああ、ずっと」


 言葉にしただけで、嬉しさが溢れて止まらない。
 彼女の言葉だから。
 こんなにも心が揺さぶられて、満たされる。
 簡単に翻弄されるのに、それが幸せだと思うのは、おかしいだろうか。


 おかしくても良い。
 こんなにも幸せなのだから。


 ――――ずっと、この幸せが続きますように。


 レインは、この腕の中にいる大切な少女に、そっと祈りを捧げた。
 これからも、ずっと。ずっと。









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